ラジオ放送で、觀世流の「葛城(かづらき)」を聴く。
出羽國羽黒山からやって来た山伏一行は、大和國葛城山で降雪に遭ひ行く手を阻まれ難澁してゐると、當山に住むと云ふ女が現れて一夜の宿を提供され、暖のもてなしをうけるうち、女は實は葛城山の女神で、今は昔、役行者のいやがらせで蔦葛に縛られてしまった我が身を救って欲しいと頼む──
しんしんとした雪山の晩を彩る大和繪巻は、古麗な謠を聴いてゐても充分その情景に遊ぶことが出来るが、厳冬の雪の晩に聴いたら、また違った深さに逢ふのではないか。
雪山と云ふと、近年は遊客が所定の區域を逸脱して遭難する事故を、ちょくちょく耳にする。
私も旧街道の峠越えで、道筋をしっかり追ってゐたつもりがいつの間にか外れてしまひ、途中でどうも様子がおかしいことに氣付いて慌てて戻った經験がある。
あの時は相當にヒヤッとしたものだ。
その怖さを知ってゐつもりだけに、雪の深山へ自ら望んで迷ひ込む遊客が、私には全く理解出来ない。
素人の肝試しだの根性比べだのは、せいぜい遊園地にでも行ってやることだ。
あそこならば、必ず出口がある。
しかし山は、あのとき私も慌てて戻ったごとく、出口がない。
山にゐるのは、「葛城」に見るやうな神様ばかりではないのだ。