迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

同じになるものならぬもの。

2019-02-24 19:35:27 | 浮世見聞記
逗子文化プラザホールで、和泉流狂言の「末広かり」を観る。


シテの果報者はだいぶ聲が苦しさうだったが、脇狂言らしゐ品格のなかにも春近しな薫風が漂ふ、綺麗な一番。

人間國寳の“國寳”とはなんたるかを、分かり易く、はっきりと示してくれた。

この一番だけでも、今日出かけた価値は充分にあるといふもの。

ただこの“会派”には良い後継者が見当たらないので、現在(いま)をよく記憶しておくべし。





猿楽は旧結崎座分家の「小鍛冶」、興味のある曲ではあったが、入口でもらった番組を見て、地謡と後見にそれぞれ女流が混ざり込んでゐることがわかり、いっぺんに興が醒める。

「こりゃァ、猿楽にあらず……」

當世はなにかと男女均等といふ名の「男女混同」がまかり通ってゐるが、なんでもかんでも一緒にすれば良いといふものではない。


男女の棲み分けを明確にし、それぞれが領分を全うすることで均衡を図る──

とは、或る江戸川乱歩賞作家の言葉だが、私もその考へ方に賛成するものである。


男性が演じることで完成された猿楽に女流が混ざり込めば、あとは不協和音でしかない。

素人愛好家の発表会なら、しょせんそれぞれの自己満足でお終ひの世界だから何が混ざらうと構はないが、それはまがりなりにも玄人がお金をとって見せるやうな仕事ではない。


性が異なる以上、同一扱ひには限界があることを、よく自覚するべきである。



と、せっかくいい「末広かり」を観たあとなのでその印象を壊さないうちにとすぐ会場をあとにし、一階ロビーへ降りると、



“同じ命”を訴へる写真展に、共感の募金をする。




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