今読んでいる『へんろの時空』に出てくる言葉。
《「あなたのからだはあなたの食べたもので出来ている」岩屋寺の参道の店に掲げてある。
そのとおり。反芻動物、例えば牛のように草しか食べないけれど、筋肉と脂肪を身に着けるというのは、
一寸したからくりを内蔵しているだけで、やっぱり食べたもので出来ていることに違いはない。からだは心をつくる。
だけどあなたの心はあなたの眼にしたもの、耳にしたものから出来ているか。そう、出来ている。
だけど、そうした外部情報から直ちに心が出来るかどうか、気になるところだね。
心の構造ということもあるしね。多分反芻動物の持つ、からくりみたいなのがあるんだろうね。》
歩きへんろをしていたら、こんなことを考えたりするのだろうか?おもしろい。
そうかと思えば、こんな話も。
《長尾寺まえの宿「民宿ながお路」での、へんろ達との最後の夕食。
昼間に寺で会っても、口を利くことがない、強健なからだの、達者なへんろが酒を飲むと、
自慢ばかりで人の話をさえぎるばかり。七回廻って、一回当たり50万円は要るから、
もうあなたたちより沢山お金を使ったという話を始め、(略)男もいろいろ、へんろだっていろいろ。
さよなら わたしのいとしい遍路たち》
これは第88番札所「大窪寺」での結願を終えた5月22日の日記の最後。
《「生きたように考えるな、考えたように生きよ」
「犀の角のように生きよ」
言葉は重すぎて、口にすることはないが、密かな規範だった。
激しい政治の季節が過ぎ、ゆた香と達身が生まれ、親となり、夫ではあったけれど、
それでも、何者にもならない、ということを自分に命じて、そのように、ここまできた。
考えたことと感じたことの微妙な齟齬の中でここまで来たが、歳を重ねていく中で、
すべてはそうなるべくしてなるだろうという半諦念と、心のままに生きるという半意志に置き換えた。
期待を込めて、待つよりすべがない。
ドリス・デイの「ケ・セラ・セラ」を原語で合唱したのはどこの宿だったろう。
そう、期待を込めて待つより他ないことは、ある。
順子さん宅 泊 》
そして「あとがき」
《前二回もそうですが、へんろ中は明日と昨日のことしか考えませんでした。
新聞も読まず、TVは朝食時に天気予報を見ることがあるばかりでした。
へんろ女の背中には 汗拭き 着替え お弁当
へんろ男の背中の袋 煩悩 渇愛 しがらみばかり
と前のへんろ日記に書いていますが今回は男の袋を持たずに、
普段の暮らしのまま、四国を歩きたいと願っていました。
(略)
体のことも、心のことも、日記への表現のことも、すべてぶっつけ本番のしわざです。
年齢的には未体験ゾーンにいますが、友人たちの不具合を見ていると、
年齢だけでなく、人生的な未体験ゾーンといえそうです。
2018年8月 〇村〇弘 》
読み終えました。
宮崎先生がおっしゃるように、なんということが書いてあるわけではないと言えばいえるかもしれませんが。
78歳の〇村さんの「へんろ日記」、これも宮崎先生がおっしゃるように、自分のためだけに書かれていて、
それが清々しく、こんな風に書ければいなあと思いました。
でも、わたしにはこんな書き方は出来ないだろうな、とも思います。
追記
ほかに気になった言葉。
4月9日 《老いたるものにとって、いのちとは残り時間である。》
4月28日 《(略)急に激しい下痢が来た。人目や車を避けるところもなく、
やっと探した道端の樹木の陰でしゃがみこんだが、時すでに遅し。
パンツとズボンも汚れて、白衣までも汚れることになった。
靴を脱ぎ、ズボンを脱ぐ。昨日小料理屋で貰った濡れティッシュ5枚ほどを全部使ってまだ足りない。
下半身はだかで着替えを取りに国道端へ。
木陰に棄てられたパンツには、すぐに虫が5,6匹やってきた。せめて餌になってくれ!
(略)ことの最中は慌てふためいていて処理に当たるが、その後惨めな気分に襲われる。
(略)歳のせいとしか言いようがない。(略)》
こんなのを読むと、とても人に読ますために書かれたとは思えない。
宮崎先生が感動を受けたとおっしゃる所以でしょうね。
このあと。
《順子さんに休憩時にメールで報せたら、返信。
「歳をとったら下の世話で誇りを無くされる。大変だったね。嫌なことはすぐ忘れましょう」
そうだ、惨めだけど自分一人で処理を済ませたから、まだ要介護ではないぞ、と言い聞かせ、忘れることにした。
旅館へ入ったら、身体も衣類も全部洗おう。これで終わり。・・・・・でもなあ。》
奥様の順子さん、やさしい人なんでしょうね。
貴重な日記、読ませていただきました。
《「あなたのからだはあなたの食べたもので出来ている」岩屋寺の参道の店に掲げてある。
そのとおり。反芻動物、例えば牛のように草しか食べないけれど、筋肉と脂肪を身に着けるというのは、
一寸したからくりを内蔵しているだけで、やっぱり食べたもので出来ていることに違いはない。からだは心をつくる。
だけどあなたの心はあなたの眼にしたもの、耳にしたものから出来ているか。そう、出来ている。
だけど、そうした外部情報から直ちに心が出来るかどうか、気になるところだね。
心の構造ということもあるしね。多分反芻動物の持つ、からくりみたいなのがあるんだろうね。》
歩きへんろをしていたら、こんなことを考えたりするのだろうか?おもしろい。
そうかと思えば、こんな話も。
《長尾寺まえの宿「民宿ながお路」での、へんろ達との最後の夕食。
昼間に寺で会っても、口を利くことがない、強健なからだの、達者なへんろが酒を飲むと、
自慢ばかりで人の話をさえぎるばかり。七回廻って、一回当たり50万円は要るから、
もうあなたたちより沢山お金を使ったという話を始め、(略)男もいろいろ、へんろだっていろいろ。
さよなら わたしのいとしい遍路たち》
これは第88番札所「大窪寺」での結願を終えた5月22日の日記の最後。
《「生きたように考えるな、考えたように生きよ」
「犀の角のように生きよ」
言葉は重すぎて、口にすることはないが、密かな規範だった。
激しい政治の季節が過ぎ、ゆた香と達身が生まれ、親となり、夫ではあったけれど、
それでも、何者にもならない、ということを自分に命じて、そのように、ここまできた。
考えたことと感じたことの微妙な齟齬の中でここまで来たが、歳を重ねていく中で、
すべてはそうなるべくしてなるだろうという半諦念と、心のままに生きるという半意志に置き換えた。
期待を込めて、待つよりすべがない。
ドリス・デイの「ケ・セラ・セラ」を原語で合唱したのはどこの宿だったろう。
そう、期待を込めて待つより他ないことは、ある。
順子さん宅 泊 》
そして「あとがき」
《前二回もそうですが、へんろ中は明日と昨日のことしか考えませんでした。
新聞も読まず、TVは朝食時に天気予報を見ることがあるばかりでした。
へんろ女の背中には 汗拭き 着替え お弁当
へんろ男の背中の袋 煩悩 渇愛 しがらみばかり
と前のへんろ日記に書いていますが今回は男の袋を持たずに、
普段の暮らしのまま、四国を歩きたいと願っていました。
(略)
体のことも、心のことも、日記への表現のことも、すべてぶっつけ本番のしわざです。
年齢的には未体験ゾーンにいますが、友人たちの不具合を見ていると、
年齢だけでなく、人生的な未体験ゾーンといえそうです。
2018年8月 〇村〇弘 》
読み終えました。
宮崎先生がおっしゃるように、なんということが書いてあるわけではないと言えばいえるかもしれませんが。
78歳の〇村さんの「へんろ日記」、これも宮崎先生がおっしゃるように、自分のためだけに書かれていて、
それが清々しく、こんな風に書ければいなあと思いました。
でも、わたしにはこんな書き方は出来ないだろうな、とも思います。
追記
ほかに気になった言葉。
4月9日 《老いたるものにとって、いのちとは残り時間である。》
4月28日 《(略)急に激しい下痢が来た。人目や車を避けるところもなく、
やっと探した道端の樹木の陰でしゃがみこんだが、時すでに遅し。
パンツとズボンも汚れて、白衣までも汚れることになった。
靴を脱ぎ、ズボンを脱ぐ。昨日小料理屋で貰った濡れティッシュ5枚ほどを全部使ってまだ足りない。
下半身はだかで着替えを取りに国道端へ。
木陰に棄てられたパンツには、すぐに虫が5,6匹やってきた。せめて餌になってくれ!
(略)ことの最中は慌てふためいていて処理に当たるが、その後惨めな気分に襲われる。
(略)歳のせいとしか言いようがない。(略)》
こんなのを読むと、とても人に読ますために書かれたとは思えない。
宮崎先生が感動を受けたとおっしゃる所以でしょうね。
このあと。
《順子さんに休憩時にメールで報せたら、返信。
「歳をとったら下の世話で誇りを無くされる。大変だったね。嫌なことはすぐ忘れましょう」
そうだ、惨めだけど自分一人で処理を済ませたから、まだ要介護ではないぞ、と言い聞かせ、忘れることにした。
旅館へ入ったら、身体も衣類も全部洗おう。これで終わり。・・・・・でもなあ。》
奥様の順子さん、やさしい人なんでしょうね。
貴重な日記、読ませていただきました。