今の金が全ての世の中で、この真似を出来る日本人が何人いるでしょうか。ちょっと動けば幾らでも相当な地位を得られた立場でもあったはずなのに絶対にそれをせず赤貧を通した素晴らしい人をねずさんが取り上げてくれています。
人を騙し、利用して栄耀栄華を楽しむ人生よりこうした人生に共感を覚えます。
それにしても、我が先人には凄い人がおられます。少しでもこの矜持に近づきたいものです。
何時ものように全文をリンク元で是非読んでください。
ねずさん のひとりごとより 2019 年 10月19日
提督井上成 美海軍大将のこと
・・・略
戦争が終わった時、戦前の海軍省は、第二復員省という名称になって、外地からの兵士の復員を専門に扱う省庁となっていまし た。
ある日のこと、その復員省に井上が、自宅があった三浦半島名物のミカンを大量に持ってやってきました。
そして、
「田舎にはこんなものしかありませんが、
みんなで食べてください」
復員省にいたのは、井上の旧部下たちでした。
この当時は、食べ物がなかなか入手できない時代でした。
その時代に、ミカンは非常に貴重な果物でした。
井上は、自身も後日、貧困のため栄養失調と胃潰瘍で入院を余儀なくされるほどの生活を送っていながら、貴重なミカンを机に山 が出来るくらい、たくさん手で持って、持参して、みんなに食べてもらっています。
当時復員局員だった中山定義は、
「元の大将中将で、
復員局を訪れて
かつての部下を労ってくれたのは
それまで一人もいなかった」
と述べています。
井上元海軍提督は、昭和50(1975)年に86歳でお亡くなりになるまで、横須賀で隠棲して暮らしました。
近所の子供達や、軍人時代に懇意にしていた横須賀の料亭の芸者や仲居達に英語を教えていたけれど、謝礼を受け取らないので、 生活はそうとう厳しかったようです。
軍人恩給の給付が一時凍結されていた際、井上家の経済的な窮状を察した関係者が、旧海軍省次官の経歴で文官恩給の給付を受け られるよう取り計ろうとしたけれど、これも「自分は軍人である」と拒否しています。
海上自衛隊が発足した当時、海自の練習艦隊壮行会で、嶋田繁太郎が出席して乾杯の音頭をとったと聞いたとき、
「恥知らずにも程がある。
人様の前へ顔が出せる立場だと思っているのか」
と周囲が青ざめるほどに激怒したといいます。
島田繁太郎という人は、大東亜戦争開戦時の海軍大臣だった人です。
要するに井上提督は、自分が軍人として将官の立場にありながら、多くの部下や民間人を犠牲にした。そのことと真正面から向き 合って残りの人生を過ごしたのです。
会社が倒産したとき、その会社の幹部が、多くの社員を犠牲にしたことを恥じ、隠棲生活をした、という話は、あまり聞きませ ん。
井上提督は、開戦当時、第四艦隊司令長官であったけれど、それは大東亜戦争そのものの開戦責任を負うような立場ではありませ ん。
けれど、彼は、多くの若者を犠牲にしたことと、生涯真正面から向き合って過ごされました。
それは、とても辛いことであったことと思います。
けれど、それをやりとおしたのが、井上成美という人物でした。
先日「しょうゆ組」のことを書きました。
しょうゆを飲んで兵役を逃れた卑劣な連中が、戦後は、自分たちの卑劣さを正当化するために戦争反対、戦前、戦中の日本は異常 だった、日本は悪い国だと声高に主張しはじめました。
はっきりと申し上げたいのです。
「そういってきたあなた方こそ、
異常な悪人なのですよ」と。
この「しょうゆ」組だけにはなりたくないものですが、今の世、殆どがそうじゃないでしょうか。特に政治家。
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