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☆=☆☆☆☆☆
◎=☆☆☆☆
◇=☆☆☆
△=☆☆
▽=☆

見知らぬ乗客

2013年05月13日 14時00分17秒 | 洋画1951~1960年

 ◎見知らぬ乗客(1951年 アメリカ 101分)

 原題 Strangers on a Train

 staff 原作/パトリシア・ハイスミス

     監督/アルフレッド・ヒッチコック 脚本/ウィットフィールド・クック

     脚色/レイモンド・チャンドラー ツェンツィ・オルモンド

     撮影/ロバート・バークス 美術/テッド・ハワース

     音楽監督/レイ・ハインドーフ 音楽/ディミトリ・ティオムキン

 cast ファーリー・グレンジャー ルース・ローマン ロバート・ウォーカー ローラ・エリオット

 

 ◎結末は2種類ある

 というのも、DVDを観ればわかるんだけど、

 この作品にはアメリカ版とイギリス版があって、

 話の流れもクライマックスもほぼ同じなんだけど、

 最後のオチをつけるかどうかって感じで、

 英米の国民性を考慮したのかどうかはわからないけど、

 ともかく、

 見知らぬ乗客にふたたび声をかけられるかどうかっていうだけの違いだ。

 観る人によって好みのわかれるところだろうけど、

 そもそも、ヒッチコックはどうしたかったんだろう?

 ただ、このあらすじは上手に構成されている。

 主人公のテニス選手が交換殺人を持ちかけられるあたりは、

(なんだ、単純な話だな)

 とおもってしまいがちなんだけど、

 別れたいとおもっていた妻が殺される段になって、

 どんどんと恐怖が増してくる。

 交換殺人の片方は済んだんだから、おまえも早くやれと、

 まったくするつもりもない犯罪に引き込まれそうになるんだから。

 そこで交換殺人を持ちかけた相手に殺意が芽生えるのは当然なんだけど、

 これはけっこう普遍的な人間関係だ。

 仲良くなり、一緒に仕事をしかけ、ふとしたきっかけで仲違し、殺意を持つようになる。

 通常、これは男と女の関係でよくある話だけど、この映画は男と男の話だ。

 主人公ふたりに、ゲイの気があるんじゃないかとはよくいわれる話だけど、

 なるほど、そういうことも考えられるかもね。

 ネクタイやライターの扱いを観てると「お、そうかな」とおもえてくる。

 してみると、ヒロインはどちらなんだろう?

 それはともかく、クライマックスのメリーゴーランドは凄い迫力だ。

 スクリーンプロセスも使われてるけど、

 遊園地のじーさんがメリーゴーランドをとめるために、

 回転する真下を這っていくところは、まじで固唾を飲む。

 話の中身にではなく、

「あ~、これ、まじでやってんじゃん。ちょっとでも腰や背中に触れたらまずいで」

 という、ヒッチコック組への心配なんだけど、それくらい、まじだった。

 昔はCGが使えない分、役者は体を張ってるから、迫力は段違いだ。

 あと、

 メガネにライターが映るのはちょっと噴き出すけど、

 殺人の光景が映り込むのは、この時代の先端だったかもしれないね。

 冒頭の鉄道と並んで見事なカットでした。

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ザ・ガール ヒッチコックに囚われた女

2013年05月12日 01時25分26秒 | 洋画2012年

 ◇ザ・ガール ヒッチコックに囚われた女(2012年 イギリス、アメリカ、南アフリカ 91分)

 原題 The Girl

 staff 原作/ドナルド・スポト

         『Spellbound by Beauty : Alfred Hitchcock and His Leading Ladies』

     監督/ジュリアン・ジャロルド 脚本/グウィネス・ヒューズ

     撮影/ジョン・パルデュー 音楽/フィリップ・ミラー

 cast シエナ・ミラー トビー・ジョーンズ イメルダ・スタウントン コンラッド・ケンプ

 

 ◇1963年3月28日『鳥』封切

 因縁といったら御幣があるかもしれないけど。

 この作品のヒロインであるティッピ・ヘドレンは、

 ヒッチコックの『鳥』で一気にスターの仲間入りを果たし、

 ゴールデングローブ賞を受賞した。

 ところが、その撮影中、

 彼女に恋狂いしたヒッチコックによって、

 セクハラとパワハラを合わせたような目に遭わされ、

 ストーキングまがいのつけ回しまで受けたらしい。

 で、この作品が作られてるわけだけど、

 因縁めいた話というのは、彼女の娘メラニー・グリフィスのことだ。

 そう、ヒッチコックの崇拝者ブライアン・デ・パルマに見出された女優で、

 ヒッチコックの傑作『裏窓』と『めまい』のオマージュ『ボディ・ダブル』に出演し、

 一気にスターダムに駆け上り、

 やがて『ワーキングガール』でゴールデングローブ賞を受賞している。

 なんだか、母子そろって似たような道を歩んでるように見える。

 因縁っていうのか、運命っていうのか、もしもそういうものがあるなら、

 この母子ほど、ふしぎな一致はないっておもったりする。

 ま、それはともかく、

 この作品がヒッチコックの『鳥』と『マーニー』の裏話でなかったら、

 単に、

 子持ちの自分に横恋慕してきた監督の、

 陰湿かつ執拗な嫌がらせに果敢に立ち向かった女優の奮闘記、

 てなことになってしまい、さほど注目されなかったかもしれない。

 けれど、

 これはまちがいなくヒッチコックとティッピ・ヘドレンのスキャンダルだ。

 実際、

 自分の掌に乗ってる女性に、権力でもっていいよるのは卑怯な話だし、

 いきなり肘鉄を食らわされたからといって、

 本物の鳥に襲わせる場面を43回も撮り直しさせるってのは、

 なんだか観ているこちらが辛くなるような逆切れエピソードだ。

 ただまあ、どうなんだろうね。

 ひとつだけ、なんとなくわかる気がするのは、

 ものすごい好きな女性がいて、まるで自分にふりむいてくれなくて、

 それどころか、ある種のプライドを傷つけられたと感じてしまったら、

 可愛さ余って憎さが百倍になって、とことん虐め抜いて、

 泣き苦しんでいるところ見て、嘲り笑ってやろうとする歪な心根だ。

 もしかしたら、誰もが大なり小なり持っている暗黒面かもしれない。

 現代でいえば、

 たとえば、ふられた腹いせに、ネットの掲示板やツイッターとかに、

 あることないこと書き込んだり、あられもない写真を載せたりして、

 彼女のプライドを木っ端微塵にしてやろうとおもったりすることかな?

 この作品の中で、ヒッチコックのしたことは、それに似てる。

 ほんとに、こんなことがあったんだろうか?

 いや、

 原作はティッピ・ヘドレンに取材した上で書かれてるんだから、

 多少の誇張はあるにせよ、似たような事実はあったのかもしれない。

 たしかに映画『ヒッチコック』でも、

 ヒッチコックがヴェラ・マイルズに向かって、

「どうして、わたしから去った?」

 てな質問をしてるわけだから、ヒッチコックの女好きは周知のことだったんだろう。

 といっても、

 まあ『鳥』の撮影風景でいえば、

 ボートから桟橋に降りる件と、

 電話ボックスの鳥の襲撃場面と、

 屋根裏での鳥の群れの襲撃場面とは、

 似てるけど微妙に違っているわけだから、

 実際の話じゃないんだよっていうことになるのかもしれない。

 そんなことから想像できることは、

 ティッピは、たった一度のキスも嫌がるほど、

 ヒッチコックという、いわば恩人となるような人間を、どうしても好きになれず、

 それどころか、

 半世紀を経た今でも糾弾したいほどに憎んでいたのかな~ってことだ。

 執念深いといったらいけないかもしれないけど、

 げに恐ろしきは、女心です。

 あ、でも。

 ヒッチコックが、美男子だったら、肘鉄は食らわされなかったわけなので、

 そういうところ、天才ヒッチコックも辛いところだったんだろう。

「とほほ…」

 っていう、熊倉一雄の声が聞こえてきそうだわ。

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2013年05月11日 02時24分39秒 | 洋画1961~1970年

 ◎鳥(1963年 アメリカ 119分)

 原題 The Birds

 staff 原作/ダフネ・デュ・モーリア『鳥』

     製作・監督/アルフレッド・ヒッチコック 脚本/エヴァン・ハンター

     撮影/ロバート・バークス 特殊撮影/アブ・アイワークス 美術/ジョージ・ミロ

     音響コンサルタント/バーナード・ハーマン

     電子音制作/レミ・ガスマン&オスカー・サラ

 cast ロッド・テイラー ティッピ・ヘドレン ジェシカ・タンディ スザンヌ・プレシェット

 

 ◎なぜ、鳥は人を襲うのか?

「かわいそうだとはおもわないかね。

 罪もないものをこんな籠の中に閉じ込めておいて」

 という冒頭のやりとりだけが、ヒッチコックの考えていることのヒントかもしれない。

 でも、映画ではなんの言及もなされていない。

 ヒッチコック自身、鳥がなぜ人を襲うようになったのか、

 ほんとうはわからなかったかもしれない。

 でも、映画を観た者が「なんで?」と考えることが大事で、

 そうしたら、たぶん、

 ヒッチコックは「思惑どおりだ」とか呟いて、ほくそ笑むんだろう。

 この映画の影響をものすごく受けたとおもわれるのは、手塚治虫だ。

『鳥人大系』はヒッチコックへのオマージュみたいにおもえるし、

『ミクロイドS』は随所に影響の痕が見られるような気がする。

 手塚治虫はよほどヒッチコックが好きだったようで、

 漫画のコマの中にもパロディがなされてるから、たぶん、合ってるだろう。

 もちろん、手塚治虫だけじゃなく、スピルバークの『ジョーズ』もそうで、

 目ん玉えぐられてる死体が浮かぶのは、

 ジェシカ・タンディが家の中で見つけるダンのパロディだもんね。

 いや、実際、子供の頃に観た『ウルトラQ』だったか、

 怪鳥ラルゲユウスの話で『鳥を見た』ってのもあったし、

『ウルトラマン』では『高原竜ヒドラ』が登場して、人を襲った。

 もっとも、そのあたりは人と鳥との因果関係がはっきりしている分、

 この作品ほどの不条理さはないような気がする。

 ま、そんなことを挙げてたらきりがないからやめるけど、

 映画は、最初、ラブバードがらみの恋愛話みたいにして始まる。

 サンフランシスコ郊外のボデガ湾は、絵みたいに美しい。

 けど、どことはなしに寒々とし、美しい恐怖が到来するにはもってこいの風光だ。

 そう、恐怖は人知れず、徐々に静かにやってくる。

 だから、怖いんだよね。

 画面もまた秀逸だ。

 ダンの死体が発見されてから、ジェシカ・タンディがトラックを運転して、

 田舎道を疾走していくところなんざ、

 緑の遠景の中、ぱあっと白い砂塵が上がってゆく。

 その緑と白のコントラストといったら、ない。

 大爆発しているガソリンスタンドの上空、

 俯瞰しているカメラに、1羽また1羽とカモメがフレームインしてきて、

 やがて大編隊が急降下して襲撃に入る。

 この徐々に忍び寄ってくる恐怖の見事なこと。

 ティッピ・ヘドレンが教会の前のベンチで煙草をふかしていると、

 その背後のジャングルジムに1羽また1羽とカラスが停まるんだけど、

 子供たちの歌声が被さってきて、それが美しいために、一層恐怖が増す。

 いや、

 この映画のなにより凄いところは、劇中で奏でられるのは別にして、

 音楽がいっさいないことだ。

 音響効果だけですべてを表現してるんだから、凄すぎる。

 ちなみに、

 ティッピ・ヘドレン演じるところのお金持ちのお嬢さんは、

 高慢ちきで、嫌味で、勝気で、意地悪で、芝居がかってて、鼻もちならない。

 恋に落ちるロッド・テイラーの母親ジェシカ・タンディが、

 この娘、気に入らないわ、とおもうのは無理もない。

 でも、世の男は、年を食えば食うほど、

 こういう、本心を隠して取り澄ました不届き女が好きになるものなんだろうか?

 なにかといえば細い足を組み(ボートを操縦しても)煙草をふかし、

 ガソリンをまきちらすオープンカーを乗り回す。

 なにからなにまで小憎たらしい女の設定になってるんだけど、

 ヒッチコックはどうやら、そういう高嶺の花のような女性が好きだったらしい。

 いつかかならず、どこかの時点で塩らしくなると期待させながらも、

 いっこうにふりむいてくれない女性を落としたいとおもっていたのかも。

 だから、ラストの脱出場面では、

 ずたぼろになった息子の恋人を、

 母親がひしと抱きかかえながら車に乗り込み、

 最初は気に食わないのにやがてはお互いに認め合い、理解しあい、

 そしていたわり合うんだという演出に持っていってるんだろう。

 でも、だいたいの場合、そういう女に憧れる男は、ふられる運命にある。

 このヒロインはティッピ・ヘドレンにために造形されたように見えるんだけど、

 結局、ヒッチコックはふられるんだよね、現実のティッピに。

 ま、それについてはともかく、 

 世にも恐ろしい鳥パニックから逃れるために、

 ティッピはテイラーの一家と共にサンフランシスコの市街へ逃げ出すんだけど、

 ヒッチコックは、もともと、映画のラストシーンはこう考えていたそうだ。

 金門橋が鳥で覆い尽くされるんだ、と。

 そうしてほしかったわ~。

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ヒッチコック

2013年05月10日 18時00分02秒 | 洋画2012年

 ◎ヒッチコック(2012年 アメリカ 98分)

 原題 Hitchcock

 staff 原作/スティーヴン・レベロ『アルフレッド・ヒッチコック&ザ・メイキング・オブ・サイコ』

     監督/サーシャ・ガヴァシ 脚本/ジョン・マクラフリン

     撮影/ジェフ・クローネンウェス 美術/ジュディ・ベッカー

     音楽/ダニー・エルフマン 特殊メイク/ハワード・バーガー グレゴリー・ニコテロ

 cast アンソニー・ホプキンス ヘレン・ミレン スカーレット・ヨハンソン トニ・コレット

 

 ◎1960年6月16日、サイコ封切

 実話をもとにした映画は、大きく分けると2種類ある。

 告発と讃歌だ。

 つまり、

 誰も知らないような事実の裏側を暴き露わして、世間に知らしめる物。

 誰も知らないような秘話を見つけ出して、当事者を褒め讃える物。

 という2種類だけど、この映画はもちろん後者だ。

 ただし、讃えられているのは、ヒッチコックではない。

 愛すべきサスペンスの神様を支えた妻アルマ・レヴィルで、

 要するに、愛夫物語ってわけだよね。

 だから『サイコ』のメイキングが前面に押し出されているものの、

 そんなものは作品の味付けで、

 常に仕事を優先し、同時にかなりの女たらしだった夫が、

 ちょっと仕事でかげりが見え始めたとき、

 陰に日向に夫を支えてきた妻が発奮し、

 壊れかけていた夫婦の絆をふたたび結び直すんだけど、

 そこには、どこまでも夫を信じ、夫を誇りにおもっていた妻の愛情があったっていう、

 いってみれば古典的な感情のやりとりを主軸にした話になってる。

 ハリウッドは、ほんと、定番の崩さないっていうか、王道を歩んだ映画作りをする。

 実際、ぼくたちはこの夫婦が必死に作り上げようとしてる『サイコ』を知ってる。

 それがどれだけ凄い作品で、全世界を恐怖と興奮に包み込んだかってことも、

 そう、何十年も前からよく知ってる。

 だから、ヒッチコックがどれだけ悩み苦しんでも、

 資金難で崖っぷちに立たされることになっても、

「けど、いいもん食ってたんだな~」とか、

「自分の浮気は棚に上げて、妻の不倫疑惑に苛まれるわけね」とか、

 余分なことを考えつつも、まあ、落ち着いて見ていられる。

 ただ、アルマが脚本のシノプシスの段階から、

「30分で殺すのよ」とかいう肝心なことまで意見してたとか、

 夫の代わりに撮影現場に立ったり、

 最初は緊迫感のない作品が仕上がっていたのに、

 彼女が編集に参加して、シャワー場面の音響まで口を出していたとか、

 へ~そうだったのか~てなこともおもったわけだけど、

 これがどこまで事実に即しているのかってことは、実はどうでもいい。

 ずたぼろになった夫のために、

 才能ある妻がどれだけ奮闘するかって話なんだから。

 そのあたりは、アンソニー・ホプキンスとヘレン・ミレンは実に見事で、

 まったくもって非の打ちどころがない。

 おもわずくすりとしてしまったのは、観客が絶叫する劇場内の声を聞いて、

 アンソニー・パーキンスが包丁を振り下ろすように踊る場面だけど、

 もうひとつ、ある。

 ときどき、スタジオの横を通りかかるブロンドに鴬色の服を着た女性を、

 ヒッチコックがむすっとした表情のまま、ちらりと見つめるところだ。

 ティッピ・ヘドレンによく似たその女性の登場が暗示するのは、もちろん、

 鳥、だ。

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サイコ

2013年05月09日 23時35分11秒 | 洋画1951~1960年

 ◎サイコ(1960年 アメリカ 109分)

 原題 Psycho

 staff 原作/ロバート・ブロック『サイコ』

     監督/アルフレッド・ヒッチコック

     脚本/ジョセフ・ステファノ 撮影/ジョン・L・ラッセル 音楽/バーナード・ハーマン

     美術/ジョセフ・ハーレイ ロバート・クラットワージー ジョージ・ミロ ソウル・バス

 cast アンソニー・パーキンス ジャネット・リー ヴェラ・マイルズ ジョン・ギャヴィン

 

 ◎剥製は『鳥』

 たぶん、中学生のときだったとおもう。

 初めて『サイコ』を観た。

 話の中身はすぐに忘れてしまったし、よく理解できていなかったかもしれないけど、

 どうにもシャワーシーンの恐ろしさが忘れられず、

 以来、いまにいたるまで、シャワーのカーテンを閉めるとき、

 ふと、この映画をおもいだす。

 おもいだすと途端に不安がよぎり、シャワーを浴びてる間中、

 カーテンの向こうに誰かいるんじゃないかって気になってる。

 トラウマっていうんだろうか。

 まったくヒッチコックも恐ろしい場面を考えたもんだ。

 大学に入ってから、はじめて『殺しのドレス』を観、

 今度はエレベーターまで怖くなったけど、

 そのときは『サイコ』の内容はすっかり忘れてて、

 実をいえば、ぼくはすっかりブライアン・デ・パルマが御贔屓になってた。

 デ・パルマがヒッチコックの崇拝者で、

 いたるところにオマージュがあるのはわかってたけど、

 どうしてもヒッチコックを現役で観ていなかったぼくは、

 デ・パルマ派に属していた。

 ところが、かなり年を食ってから、あらためて『サイコ』を見返し、

「すげえ」

 いまさらながら、そうおもう始末だった。

 今回、映画を見直したのは、ほかでもない。

『ヒッチコック』を観る前の予習のためだ。

 にしても、あらためて観ておもうんだけど、

 ジャネット・リーが勤めてる不動産会社の金を横領して、

 車を買い替えながら逃げてゆく際の緊迫感たるや、尋常じゃないよね。

 頭の中がパニックになってるとき、それをさらに、

 ほかの登場人物の会話と、通り過ぎる車のヘッドライトで増幅させるところなんざ、

 見せられれば「簡単なことじゃん」っておもうけど、

 この場面を発想したヒッチコックの才能たるや、余人の追随はおよばない。

 殺されたジャネット・リーが浴室のタイルを舐めるように倒れている眼のアップから、

 移動とクレーンを駆使して、となりの部屋のベッドの脇の小テーブルまで続く、

 きわめて長く流麗なワンカットは、誰も考え出したことのないものだったろう。

 車を沼に沈める際、途中で水圧に邪魔されたものか、一瞬、止まったとき、

 焦り切ったアンソニー・パーキンスのモンタージュが挟み込まれる上手さもまた、

 ヒッチコックがいかに登場人物の焦慮と緊張を考え抜いていたかよくわかる。

 そんなひとつひとつのカットについて書いていたらキリがない。

 ま、それより注目したいのは、ヴェラ・マイルズの上品さだ。

 ヒッチコック・ブロンドは誰も美しいけど、

 なによりの条件は品の良さにある。

 ジャネット・リーとヴェラ・マイルズを姉妹として並べたとき、

 どちらが好みだったかは、一目瞭然じゃないかしら、たぶん。

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ザ・ライト -エクソシストの真実-

2013年05月08日 01時59分54秒 | 洋画2011年

 ◎ザ・ライト -エクソシストの真実-(2011年 アメリカ 114分)

 原題 The Rite

 staff 原作/マット・バグリオ『ザ・ライト -エクソシストの真実-

     監督/ミカエル・ハフストローム 脚本/マイケル・ペトローニ

     撮影/ベン・デイヴィス 美術/アンドリュー・ロウズ 音楽/アレックス・ヘッフェス

     協力/ゲイリー・トーマス神父

 cast アンソニー・ホプキンス コリン・オドナヒュー マルタ・ガスティーニ アリシー・ブラガ

 

 ◎The Riteの意味

 一般に、riteという単語は、宗教上の特定の儀式を指すらしい。

 ただし、厳粛に行われる式という意味もあるから、

 The Riteとなったら、こりゃもう、悪魔祓いの儀式になるよね。

 実をいうと、映画を観るまでは、

「アンソニー・ホプキンスがなんだってまたB級ホラーなんかに出るんだよ」

 てな感じでおもってた。

 ところが、とんでもない間違いだった。

「え。けっこう、まじな映画じゃんか」

 映画の前知識をほとんど仕入れずに観ることにしてるから、

 ま、こういうことはよくあるのさ。

 にても、バチカンがほんとに悪魔祓いをするエクソシスト養成講座を持ってて、

 実際に、現在も世界中に悪魔祓いをする神父が存在してて、

 その内のひとりが映画の撮影現場に立ち会ってるとはおもわなんだ。

 コリン・オドナヒューは実際の悪魔祓いにも見学したとかいうし、

 へ~ってなもんです。

 でも、悪魔が憑依することはあるかもしれないけど、

 釘が喉を逆流して口から吐き出されるのも、

 聴いたことのない、喋ったことのない言語をいきなり喋るのも、

 ついつい「ほんとに?」とかおもうよね。

 憑依された人間は十字架をつきつけられて苦しみ悶えるけど、

 これが日本だったら、数珠とか御幣とかになるのかな?

 狐憑きとかあったわけだから、

 どこの国の人間も、なんらかの悪霊には憑依されるんだよね、たぶん。

 それがキリスト教圏では、悪魔ってことになるわけでしょ?

 けど、まあ、悪魔祓いの真実はよくわからないので、

 映画の話をしよう。

 アンソニー・ホプキンスの上手さはいまさら触れるまでもないことだけど、

 特殊メイクもしないで、演技だけで怖がらせてくれるのは、

 彼とジャック・ニコルソンくらいなものだ。

 この映画の味噌は、うらわかい妊婦の悪霊を祓ったはいいけど、

 今度はその神父が悪霊に憑依されてしまうという展開だ。

 それを、葬儀屋を継ぎたくないために神学の道を選んだ若者が、

 生まれて初めての悪魔祓いをして助けるという話なんだけど、

 そこには、葬儀屋を営んでいた父親への反発と抵抗があり、

 でも実は父親に対する尊敬と哀惜を抱えた若者が、

 父親に見立てられる神父の苦悶をまのあたりにし、

 これを助けることで、父親への理解と愛情を示し、

 みずからの呪縛からも解放されるという構図になってる。

 つまり、

 父と息子の葛藤劇に悪魔祓いという味付けがなされてるわけだけど、

 そんな小難しい分析はさておき、妊婦役のマルタ・ガスティーニが好い。

 鬼気迫る演技を見せてくれてるし、普段はたぶんすごく綺麗なんだろな~と。

 それと、

 タイトルのそこかしこに十字架が見え隠れしているのも、goodでした。

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朱花の月

2013年05月07日 12時15分30秒 | 邦画2011年

 ◇朱花の月(2011年 日本 91分)

 staff 原案/坂東眞砂子『逢はなくもあやし』

     監督・脚本・撮影・編集/河瀬直美

     美術/井上憲次 音楽/ハシケン

 cast こみずとうた 大島葉子 明川哲也 山口美也子 樹木希林 西川のりお 麿赤兒

 

 ◇朱花の色は、血の色

 題名は「はねづのつき」と読むらしい。

 はねづと聞いてまっさきにおもいだすのは、

 京都山科区小野の『はねず踊り』だ。

 真言宗大本山隨心院で毎年3月の末になると催される踊りなんだけど、

 この隨心院で余生を送っていたのが小野小町で、

 彼女を慕う深草少将の百夜通いの伝説があって、

 それを舞踊に託したのが「はねず踊り」だ。

 そもそも「はねず」ってのは、薄紅色の古名だそうで、

 淡い紅色をした梅も「はねず」といわれるみたいね。

 だから紅梅と書いて、はねずとも読むらしい。

 踊りはお嬢ちゃんやおねーさんの華やかなもので、

 竹の筒に入った「はねづういろ」をお土産にすればもうOK、

 ってな感じだけど、

 この映画では「はねづ」となり、漢字も朱花となる。

 つまり、山科の「はねず」とはまるで別な、

 奈良県飛鳥地方の「はねづ」なんである。

 万葉集にある朱い花の古名から取られたらしいから、

 歴史的なことからいえば、こちらの方が断然、古い。

 とはいえ、そんな「はねず・はねづ問答」なんて、どうでもいい。

 はねづの月、だ。

 月を背に、万葉集から始まる。

 中大兄皇子の

『香具山は 畝傍を惜しと 耳梨と

 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も 然にあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき』

 持統天皇の

『燃ゆる火も 取りて包みて 袋には 入ると言はずや 逢はなくもあやし』

 が、息もたえだえな感じのナレーションと文字で漂い始める。

 なにやら妖しくかつ禍々しい男女の闇が始まるのかと、

 ついつい想像しちゃうのは無理もない。

 ただ、この冒頭が、映画の中でいちばん興奮した気がする。

 話は筋という筋もなく、男女の三角関係とそれに絡んだ心の闇だ。

 血のような朱色を布地に染めているだけで、

 それを職業にしているようなしていないような、

 鬱病のリハビリなのか、たゆたっているだけなのか、

 ちょっとよくわからない浮遊感を持った女が、

 同棲している地方誌の編集者に心身ともに気遣われていたんだけど、

 同級生だった木工作家に再会してしまったことで恋に落ちて子をはらむ。

 ところが、罵倒や乱闘とかの絡んだ抜き差しならない遣り取りもなく、

 やがて発作的にか、何者かの手によるものか、

 同棲していた男は、彼女の染めていた朱花色の血の海で死ぬ。

 自殺なのか他殺なのか、それすら曖昧なまま映画は漂い続けるんだけど、

 主人公たちの祖父と祖母が、戦前、恋をしながらも添い遂げられなかったことで、

 その亡霊なのか、残留思念なのか、あるいは幻覚なのかわからないけど、

 見えざる魂のゆらめきが見えてしまうことにより、幻想味は多分に増す。

 けど、そうした分析はさておき、なんてまあ、凄じいリアリティだろう。

 この映画の命といってもいいほどの緊張感で、

 ドキュメンタリといっても信じちゃえるほどの現実感。

 ことに、音。

 息遣い、虫の跫音、風の渡り…。

 もしかしたら月の移動する音まで録音されてるんじゃないかってくらい。

 画面のちからづよさは、

 特に虫のアップや月も含めた奈良の風光から感じられるけど、

 ひっぱりすぎたらぷつりと切れてしまいそうな緊張を伝える音は、

 全編中に満ちてる。

 このリアリティの伝え方は、凄い。

 どこまでこの陶酔した映画にみずからもまた陶酔できるのかってことが、

 鑑賞の要なのかもしれないし、感性を試されているのかもしれないね。

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ニュー・シネマ・パラダイス

2013年05月05日 19時49分34秒 | 洋画1981~1990年

 ☆ニュー・シネマ・パラダイス・完全オリジナル版(1988年 イタリア、フランス 170分)

 原題 Nuovo Cinema Paradiso

 staff 監督・脚本/ジュゼッペ・トルナトーレ 撮影/ブラスコ・ジュラート

     美術/アンドレア・クリザンティ 音楽/エンニオ・モリコーネ

 cast フィリップ・ノワレ ジャック・ペラン サルヴァトーレ・カシオ アニェーゼ・ナーノ

 

 ☆シチリア島

 パラッツォ・アドリアーノ村が撮影現場だというけど、残念なことに、土地勘のないぼくには想像もできない。ただ、なんとなく、この微笑ましく心優しい映画の舞台が今もあるんだろうなとおもってる。ま、この映画がいかに感動的かってことは、もういまさら書く必要もない。中には異なった意見もあるだろうけど、やっぱ、好い映画です。

 で、話はフィルムのこと。大学時代、映画監督をめざしていた後輩がいた。風に揺れる柳のようなほっそりした後輩で、映画に詳しく、才能もあった。

「いつか、フィルムって無くなるんですよね。だったら、おれ、最後のフィルムを手に入れて、それで映画が作りたいんすよね」

 また、同級生に恐ろしく才能のある男がいて、こんな8ミリ映画を撮った。とある夢の中で、おのおの自己を認識してしまった連中が、たがいを殺すという消去法で誰の夢かを判断しようとするんだけど、結局、それは映写機の観ている夢で、かれらはフィルムの中でしか自己を肯定することができない存在だったって話で、最初と最後は、がしゃん、かたかた、かたかた…と、リールに巻きとられてゆくフィルムと、映写機のランプの映像だった。

 ぼくたちの大学時代は、ほぼ、フィルムと共にあった。けど、誰もがトトになれるわけじゃない。

 さて、この映画の話だ。たしかにトトは、たぐいまれな才能を持った頭の好い少年だったんだろうけど、それだけで、映画の世界に進み、高名な監督にまで上り詰められるわけでもない。そこには、心優しいシチリアの人々がいなくちゃだめなんだ。トトという少年の無限の才能を信じて、将来のために、ときには心を鬼にして、接し、愛し、突き放し、送り出し、祈らないといけない。そんな理解のある、哀しいほどに優しい人々がいるからこそ、トトは成功できた。

 同時に、自分の才能が枯渇しかけ、ひどいスランプに落ち込んだ今、廃棄フィルムをつなぎあわせたキス・シーンの嵐を観たとき、まるで自分が祝福され、かつ励まされている心優しさに触れ、また人生をやりなおせる気になっていったのかもしれない。

 ともあれ、トトは、たぐいまれなほど幸運な少年だった。この映画に多くの観客が感動の涙を流すのは、そうした底なしの心優しさに出会うからだけど、人間、心優しく生きていこうとしても、なかなか、そうはできないんだよね。

 ところで、フィリップ・ノワレがとある兵士の話をする。好きになった王女の窓の下で百日待てるかといわれ待ち、やがて99日目にいきなり去る。なぜかは知らない、わかったら教えてくれと、恋をしたトトに言う。小野小町じゃん、とおもったが、あっちは99日目に死ぬか。ま、日本にもイタリアにも似たような話があるんだなとおもったわ。で、このトトの100日後はどうなのかって話なんだけど、このあたりの挿話は予定調和だね。でもその兵士の行動の意味は語られない。観客が考えろってことなんだよな~。

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カルテット!人生のオペラハウス

2013年05月04日 03時14分40秒 | 洋画2012年

 ☆カルテット!人生のオペラハウス(2012年 イギリス 94分)

 原題 Quartet

 staff 原作/ロナルド・ハーウッド『想い出のカルテット~もう一度唄わせて~』

     監督/ダスティン・ホフマン 脚本/ロナルド・ハーウッド

     撮影/ジョン・デ・ボーマン 美術/アンドリュー・マッカルパイン

     音楽/ダリオ・マリアネッリ 衣裳デザイン/オディール・ディックス=ミロー

 cast マギー・スミス トム・コートネイ ビリー・コノリー ポーリン・コリンズ

 

 ☆1851年3月11日、リゴレット初演

 ヴィクトル・ユーゴー原作といえば『レ・ミゼラブル』が有名だけど、

 映画の題材になっている『リゴレット』も、ユーゴーの原作だ。

 正しくいえば、ユーゴーの戯曲『王は愉しむ』をもとにして、

 フランチェスコ・マリア・ピアーヴェが台本を書き、

 ジュゼッペ・ヴェルディが作曲した全3幕からなるオペラが『リゴレット』で、

 その第3幕の4重唱『美しい恋の乙女よ』が、映画の題材。

 女たらしの公爵マントヴァ、せむしの道化リゴレット、

 公爵に捨てられる道化の娘ジルダ、殺し屋の妹マッダレーナの4重唱なんだけど、

 映画の中では、

 女たらしのトム・コートネイ、妻の浮気が元で結婚9時間後に離婚したビリー・コノリー、

 離婚されたマギー・スミス、永遠の天然少女で痴呆が始まりかけたポーリン・コリンズが、

 経営難になった音楽家たちの老人ホーム「ピーチャム・ハウス」の資金を集めるべく、

 紆余曲折の後に、数十年ぶりにカルテットを再結成するってことになってる。

 上手な映画だった。

 ダスティン・ホフマンの演出は、

 どうして75歳になるまで監督をしなかったんだろうっておもえるくらいで、

 ことに、

 4人の役者は演技はできても歌声を披露することはできないだろうっておもってたら、

 佳境、歌う瞬間にホームの全景にカットが変わり、大クレーンでの俯瞰に移るとか、

 いやまあ小技の効いたものになってる。

 ダスティン・ホフマンは、ぼくの中ではいつまでも青春スターなんだけど、

 やっぱり年をとってる。

 そんな彼が来日にしてインタビューに答えた際、

「老いた音楽家たちはいまだに現役で歌ったり奏でたりできるのに、

 ここ20年も仕事がもらえずにいる」

 というのがあった。

 映画に登場してくる老人ホームの入居者たちは、皆、本物の音楽家で、

 たしかに、かれらの歌や演奏は見事なものだ。

 かれらは、ダスティン・ホフマンに声をかけられたとき、

 喜んで出演を承諾したそうだけど、そりゃあたりまえだよね。

 だって、年はとっても現役なんだもん。

 年をとるのは、ある意味、とても哀しい。

 仕事ができるのに、年のせいでもらえなくなるっていうのは、辛い。

 たしかに、クラシックの演奏家にロックを弾けといわれても難しいし、

 オペラ歌手にラップを歌えといわれてもなかなか歌えない。

 でも、その逆だっておんなじなんだよね。

 年があらたまるたびに演奏家の数は増え、新人歌手が登場してくる。

 どんな世界でもおなじことなんだけど、年寄りはどんどん引退に老いこまれる。

 それが世の中ってものだってことは、まあ、わかる。

 だから、辛いんだよね。

 ダスティン・ホフマン自身、そういう辛さを抱えてるのかもしれないけど、

 でも、見事に監督してくれた。

 老いてゆく者たちにとって、これほどちからづよい見本はないよね。

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君を想って海をゆく

2013年05月03日 20時02分51秒 | 洋画2009年

 ☆君を想って海をゆく(2009年 フランス 110分)

 原題 Welcome

 staff 監督/フィリップ・リオレ

     脚本/フィリップ・リオレ エマニュエル・クールコル オリヴィエ・アダム

     撮影/ローラン・ダイアン 美術/イヴ・ブロヴェ

     音楽/ニコラ・ピオヴァーニ ヴォイチェフ・キラール アルマンド・アマール

 cast ヴァンサン・ランドン フィラ・エヴェルディ オドレイ・ダナ デリヤ・エヴェルディ

 

 ☆2008年2月、カレー

 いまでこそ、

 英国ドーバーと仏国カレーはユーロスターで繋がってるけど、

 その昔は、船がたったひとつの移動手段だった。

 昔といっても、そんなに前の話じゃない。

 20世紀の終わり、1990年代の半ばまで、

 直接、列車や車でロンドンからパリへの移動はできなかった。

 ぼくの時代、船はフェリーで、

 ロンドンのヴィクトリア駅からドーバーの桟橋近くまで列車に乗り、

 税関を通って出国、船で海峡を渡り、カレーの桟橋で入国した後、

 すぐにまた列車に乗ってパリのノルテ駅まで向かったものだ。

 都合、8時間。

 ロンドンを朝経っても、パリに着くのは夕方ちかくになった。

 夜行列車で英仏海峡を越えるとき、

 1980年までは、たしか、そのまま車輛搬送されるフェリーがあって、

 こちらはカレーじゃなくてダンケルクに行ったような気がする。

 いま、ドーバー海峡をフェリーで超えるには、

 数社あるフェリー会社の中でも歩行者が乗れる船を選び、

 さらにドーバーでもカレーでも、

 駅と港は鉄道で繋がっていないから、バスで移動しなくちゃいけない。

 貧乏旅行をする者にとっては、まことに恨めしい仕打ちだ。

 ともかく、

 ドーバー海峡を越えていくのは旅のひとつの骨頂で、

 ことに、

 ドーバーの白い壁が遠ざかっていったり近づいてきたりするのを眺めるのは、

 えもいわれぬ感慨があった。

 旅をする者にしてそうなんだから、

 はるばる中近東あたりからイギリスをめざしてきた難民にとって、

 カレーに辿り着いたとき、34キロ彼方のドーバーの白い壁は、

 生きるために到達しなくちゃいけない遠い遠い目印なんだろう。

 難民がイギリスをめざすのは、就労しやすいからにほかならないんだけど、

 なかなか入国できない。

 だから、少なくない難民が密入国することになる。

 この映画に出てくるイラク難民のクルド人の少年もそうで、

 兄貴はすでにロンドンに行っているようなんだけど、それはあまり関係なく、

 つきあって数カ月になる彼女が家族とともに移民してて、

 その恋人に逢いたいがために泳いでいこうとするんだけど、

『ル・アーヴルの靴磨き』とはほぼ正反対で、

 カウリスマキのようなほのぼのとした幸せさは微塵もなく、

 海峡の流れは兎が飛ぶほど速く、うねりもまた高く、

 佳境にいたるまで現実感が色濃く漂ってる。

 少年を泊まらせ、世話を焼いてやる中年男も、

 かつて水泳選手ながら挫折して引退し、

 難民の世話をするボランティアに懸命な妻とは離婚したばかりという、

 これまたどうしようもない閉塞感に包まれてる。

 後味も決していいとはいえない話だけど、

 現時点のヨーロッパはたぶんこんな感じなんだろな~て気がするんだよね。

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そして友よ、静かに死ね

2013年05月01日 15時15分28秒 | 洋画2011年

 ◇そして友よ、静かに死ね(2011年 フランス 102分)

 原題 Les Lyonnais

 staff 原作/エドモン・ヴィダル『さくらんぼ、ひとつかみで』

     監督・脚色/オリヴィエ・マルシャル 脚本/オリヴィエ・マルシャル エドガー・マリー

     撮影/ドゥニ・ルーダン 音楽/エルワン・クルモルヴァン

 cast ジェラール・ランヴァン チェッキー・カリョ ダニエル・デュバル ヴァレリア・カヴァーリ

 

 ◇1964年、さくらんぼ盗み

 そして、リヨンのギャング団の始まりとなるわけだけど、

 自叙伝が原作になってて、

 本人エドモン・ビダル(通称モモン)は、

 映画が公開されたときもリヨンに在住してて、子供3人と孫6人がいるっていうんだから、

 警察との露骨な取引や裏事情とか映像化されても、まあ時効って感じなのかしら?

 ともかく、フレンチ・ノワールってのは、

 男と男の友情が破綻し、破滅に追い込まれ、閉塞感ありありで逃げ回り、

 崖っぷちに思い込まれた後、陰鬱な対決と悲惨な結末が待ってるわけで、

 この映画も、そうしたフレンチ・ノワールの後を継ぐ物なんだろうけど、

 昔のものと区別するんであれば、

 ネオ・フレンチ・ノワールとかって呼べばいいのかな?

 題材のひとつになってるのは、ロマ。

 フレンチ・ノワールでは、ときどき題材にされてきた人々だ。

 ロマというのは、ぼくらの時代、ジプシーと呼ばれてた。

 ジプシーというのは英語で、フランス語だとジタン。

 ジタンといえば、ぼくなんかはフランス煙草の銘柄をおもいだしちゃうけど、

 そもそもロマって呼称は、

 東欧やイタリアで、かれらが自称してたものらしい。

 それがこの頃では共通した民族名とされてるみたいだ。

 でも、流浪の民とかいえば聞こえはいいけど、

 定住することを拒まれた民族なわけで、

 当人たちにしてみれば、身に覚えのない差別を受け、

 いうにいわれぬ苦労を強いられてきたことは誰の目にも明らかだ。

 ロマの人達が現在はどんな境遇に置かれてるのかはわからないけれど、

 主人公の少年時代はまだまだ偏見が色濃くて、

 差別されてた少年がたったひとり友達がいて、

 そいつがいろいろかばってくれたとしたら、

 おとなになったときに裏切れるだろうか?

 くわえて、若い頃、はちゃめちゃをしていた時代に、

 ふたりしてさくらんぼを盗んで投獄されるという共通体験を得ていたら、

 たとえ、その友達が悪事を続けていて、そのために命を狙われていたとしたら、

 助けようとするんじゃないのか?

 っていうのが、この映画、モモンの生涯を追った物語の本筋になるんだけど、

 結局、

 自分の信頼していた者に騙され、裏切られる人生の哀しさが主題というのも、

 なんだか身につまされるわね~。

 でもまあ、そのあたりのことはちょっと置いといて、

 ジェラール・ランヴァン、渋いわ~。

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