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伊藤若冲の謎:天明の大火後、1~2年京田辺に住んだのかな

2016-03-13 15:33:35 | つつきはっけん
江戸の中期、絵師伊藤若冲が家の近くに住んでいたという話が気になっている。ここ数年、『動植綵絵』画法の評価が高まり、今年は生誕300年にあたる。地元に伝わる話は、次のとうりである。

今から、およそ170年前の昔、寛政年間に、普賢寺にひげぼうぼう、よれよれの帯をした異様な人物が住みついた。この人は、日常何をするともなく、気のむくまま遊び歩いて食べ物がなくなると画をかいて米一斗と交換して思いのままの生活をしていた。人呼んでこの人を斗米画家という。これが有名な若冲であった。京都の八百屋の息子で有名な師について画業にはげんだが、自分は将来師以上に上達できないと悟り、独自の画風をあみだした。この人は、花鳥が得意で、鳥類を書くのが独特の筆法であった。若冲の画は、普賢寺の二家に保存されていたが、一つは、古物にまぎれてなくなり、もう一つは、座敷に4枚の花鳥が描かれてあったが、改築の時に親類の人が焼いてしまった。(昭和50年『田辺の昔はなし』 普賢寺 宮崎宗太郎 談)

天明の大火が天明8年(1788年)に発生、京都の家屋・画家が灰となり、私財をなくし、貧窮を極める中、家計のために初めて画を描き、米一斗と交換したとある。1790~1800年までは、伏見深草の石峰寺で住んでいる。すなわち、1788~1790年の1~2年間が行方不明であり、伏見から南に下り、京田辺にやって来て、普賢寺公家谷(こけだに)に住んだのではなかろうか。




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