昨日は、もう一つの発見がありました。同じ京田辺市三山木の南山城跡です。教育委員会の案内板があるので、安心して土塁があることを忘れてしまっていました。5年前に、高齢の元郷土史会会長M氏を訪ねて、3時間みっちりと郷土史について、教えてもらいました。翌年も3時間また同じ話を聞きに行きました。どちらも、口角泡を飛ばしながらの話を聞き入ったことを覚えています。
昨日の発見は、南山城跡の縄張り図によるものですが、あらためて、専門家の調査による情報が貴重なものだと知りました。
※南山城跡
三河武士、浅井光政の築城と伝わる、約百メートル四方に土塁を築き、外側に堀を巡らし、東と南に入口が設けられていた。
光政は、徳川幕府の旗本で甲州流の兵学に長じ大石良雄とも交流があったという。南山共同墓地に光政の墓がある。寛永二年(1625)の南山城郡名性譜緑によれば、福智治左衛門が城主で 元和元年(1615)落城したと記されている。発掘調査で戦国時代(16世紀後半)の遺物が多数みつかり浅井氏以前利用された城館であったことがわかった。
昨日の発見は、南山城跡の縄張り図によるものですが、あらためて、専門家の調査による情報が貴重なものだと知りました。
※南山城跡
三河武士、浅井光政の築城と伝わる、約百メートル四方に土塁を築き、外側に堀を巡らし、東と南に入口が設けられていた。
光政は、徳川幕府の旗本で甲州流の兵学に長じ大石良雄とも交流があったという。南山共同墓地に光政の墓がある。寛永二年(1625)の南山城郡名性譜緑によれば、福智治左衛門が城主で 元和元年(1615)落城したと記されている。発掘調査で戦国時代(16世紀後半)の遺物が多数みつかり浅井氏以前利用された城館であったことがわかった。
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