昨日、今朝と二日連続でいとこ死去の知らせがあった。一人は、病気療養中でかなりがんが進行していると聞いていたが、ついに生き途絶えた。もう一人は、入浴中で心不全らしい。なんとも急な話で言葉にならない。
動画制作に、パワーポイントが使えるということを知り、本日機能や性能面の確認をした。自分としてもっとも、よく知っているパワーポイントであるから、多少の無理でも、利活用度は最大かつ効率的ではないかと、思ったからだ。テキストの挿入などは、大きさ・カラー・効果などが自由に十分使える。BGMもまずまず。ところが動画への外部出力が異常に時間がかかる。加えて、サイズも極大きくなり、このあたりの効率化が狙えないかをチェックしていきたいものだ。
先行きの暮らしに影響する情報が相次いで飛び込んできている。可処分所得(手取り収入)の減、GDPもドイツに抜かれ4位。物価高や円安は、まさに国の経済政策の敗退である。そういう中、資産運用を政府が煽り立て、メディアも含めて新NISA(投資収益が非課税となる制度)を国民に強引に勧めているように感じる。NHK趣味どきっ講座「新NISA」では、30年運用すれば、7%の運用益があると訴えていた。これは、明らかに国民に誤解を及ぼす暴走表現である。投資収益が出ればということを強調的に伝えることが重要であった。株や投資信託は、必ずリスクが伴うものである。生活面の余裕資金があれば、リスクを十分認識したうえで、資産運用することを忘れてはならない。日経平均株価が上昇しているが、株で得をする人は、一部であることを認識したうえで、十分勉強して資産運用してほしいものである。
Z世代では、『まる(〇)ハラ』という言葉が広がっているらしい。会話文の終わりに、〇をつける、ごく標準的なことであるが、それが、相手に会話を途中で遮断されたと感じさせる、〇ハラスメントにつながるということである。最近のチャット文は、〇をつけずに、絵文字や、~~で終わらせることで和やかな気分にさせるようだが、このことが影響しているらしい。はあ、なるほどという気持ちと、ハラスメント横行にうんざりする今日このごろだ。
近所で親しくさせていただいている方が、昨夜、交通事故に遭われて、救急車で運ばれた。足の骨を折り、重傷とのことで、今後手術を受けるそうだ。昼頃に家の方がみえて、そのことを初めて知った。小学生のお子さんがいらっしゃるので、何かあった時には、よろしくお願いしますとのことであった。子供さんは、当方家族に大変なついているので、即座に気持ちよくお受けした。予期せぬことがいろいろ起こる現在、お互いに助け合うことの大切さを改めて感じた。
いまさらながら、言うべきことではないと思うが、小さいころからアラフォーになるまで、ほとんど読書はしなかった。このことは、年齢が増すごとに、大きな痛手となったことは否めない。現在でも、ドラマのストーリーがわからなくなったり、先が、特に人のこころが読めないことがある。長文読解は、大の苦手。現在の大学入試は、どの科目も長文に基づく問題が多い。定年後、時間の余裕ができると読書に時間をかけるようになり、その価値がわかるようになったが、やはり時遅しである。
またしても、日本の政治の腐敗状態があらわとなり、連日連夜メディアで取りざたされている。政治とカネの結びつき、政治資金規正法や派閥の見直しが議論されているが、知らぬ答えずで押し通す政府与党に対して、有効打もない野党の追及力の低さに唖然としてしまう。国会議員の特権を許さず、個人と同様にすべての収入における所得税申告の徹底、違反時の刑罰、資金の使い方の公開をと厳しくすべきである。なぜ、お金が必要かは、本来の政策策定や実行よりも、有権者の選挙得票獲得にあると思う。そのために、人を雇い選挙区のイベントに力を注ぐのである。今回の問題は、自民党政党と権力者の傲慢さが招いた不祥事であり、国民が納得する説明がなければならない。併せて、またしても、このような事態になってしまったことには、国民の日頃の政治へのかかわり方の貧困さを表しているのではなかろうか。
新たな年度の区役員選挙の用紙が配布されてきた。高齢者住民の区であるので、活動もほとんどなく、ただ、毎年区費の支払い、会計報告で一年が終わる。どちらも、納得がいかないものであるが、迷惑が掛からないように黙っている。また、だれを選んでよいのか迷ってしまう。
世界的な指揮者の小澤征爾さんが亡くなった。9日NHKラジオ深夜便インタビューでお兄さんの昔話研究家、小沢俊夫の話を聴いたばかりであった。いつの日か全く忘れてしまったのだが、あるコンサート会場で突然、隣の席の方が立ち上がり舞台の連中に激しく訴える人物がいたのだが、それが小澤征爾さんであった。一瞬何が起こったのかわからなかったが、数分後に世界の小沢さんとわかりびっくりした。今でも、その時の実情はよくわかっていない。兎に角、情熱家である一面を目の当たりに見たのだ。