世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
国会の質疑を見て
1、環境サミットを前にした国会だったが、質問した野党も答える大臣も、誰一人として、日本や世界の置かれてる状況が分っていないという事だった。温暖化・食料・エネルギーなど今世界が直面しサミットのテーマになることの質疑はどれも地球環境や地球資源の危機から発しているという認識を欠いていた。
2、対策の予算配分の発想が、現在の予算配分が枠内(省庁内)のやりくりの発想だった。 1の問題は世界や地球の状況の変化であり、予算配分そのもを白紙にして1から見直さなければならないはず。これまでの手法が相変わらず。
3、やり繰り出来ないときは、(現在の)経済を発展させるか、国民から集めるかの発想しか持っていないことだった。ある意味で既に両方とも行き詰まってるし,いづれ行き詰まる。にも関わらず、そのときの発想が全くない。
家庭の経済では考えられない事だ。父親の収入増が見込めなく、だからといって、子供から集金できない。普通のことである。そういう時各家庭はどうするか?優先順位を変えるはず。何故国はそれをやらないのか。与野党共だ!
道路とかガソリンとか言っている場合ではない。
ワイドショー
今朝も、あちこちのテレビでワイドショーをしている。
昨日あった、選挙結果、バレー、秋葉の無差別殺人などを、司会、コメンテーター、ゲスト、現場取材 を通して次々に飽きさせず見せてくれる。見始めるとつい見てしまうが、結局ショーなっだと当たり前のことに気が付いた。
どれも赤やピンクの額縁のような画面の中で長いテーブルを大道具に作られたまさにショーだ。
もったいないと思ったのは、どのニュースもショー仕立てで味や臭いが同じ。スポーツなどは清清しさが消えもったいないし、殺人事件は、映画ヤ舞台の格闘場面を切り取ったようで、前後の筋がない。後期高齢者の医療問題は姥捨て山の民話になり民話の背景がない。
テレビだから映像を使い詳細に報道しているともいえるが、詳細に伝えるところがどれも、目先のハデハデなところ中心。
これだから(あそこまでやると低俗さを超えて)物のよさや、不味さ、事実や背景、因果が分らなく、マヒし、今日のようになってしまう。
原因の一つが分かったような気がした。
久しぶりにいいニュース
5月8日、ヒラリー候補は民主党の候補から降りた。
挨拶で「党は家族のようなもの、今後オバマ氏の応援に全力を尽くす。」と宣言した。
その潔さに、アメリカの懐の深さと、民主主義の成熟した1面を見た。
党の大統領候補を1年近くかけてやる政党政治は日本では考えにくいし、党内選挙とはいえ、非難しあう場面を見せたほど激しい選挙選を展開した後であの挨拶が出来る。
日本や西欧でもあまり聞いた事がない。
アメリカが他の先進国より民主的だとは思っていないが、とかく民主的な国と民主的でない国、或いは民主国家と独裁国家のように相対立した言葉で区分けしがちだが、いうものではないなと思った。
実際は、民主主義といっても具体的なところでは長短いろいろな違いがあって、おしなべて物を言ったり、レッテルをはるやり方が物事の明快さと同時に本質を見えにくくする両面のあることを、ヒラリー氏の演説の言葉で知った気がした。
ある意味で、実質次期世界のトップリーダー選びの戦いの場面の一つ。 ヒトも なかなか捨てたものではない。
それで いいのだ!とヒラリーも、思ったのだろう。