地と図

私は社会の出来事の不平不満を日記によく書く。その不満の基になるところを別の観点から述べて見たい。
  同じ赤丸を白い画用紙に書くのと黒い画用紙に書くのとでは、違って見える。(これは形態心理学の地と図の関係である。)
書かれたものを、絵として見たら、その絵は別のものになり、意味は変わる。
 この原理は図形や絵画だけでなく音楽や文章
、話し言葉も、さらに延長すると、地上の出来事の全てに通ずると思う。
 例えば、ある人が、同じ長靴をはいて、雨の日の通りを歩いているのと、雪の日の通りを歩くのでは、長靴の役割も全く変わる。極端だが、戦場で敵を討つと褒められ
るかもしれないが、街中で敵と言えども討つとたいていは罪になる。
 人は、ずーと地球の資源を掘り起こし活用してきた。それは天の恵みのようなもので少しも悪いとは思わない。しかし、今の時代、世界中で24時間、大がかりで、地球を掘り返し燃やし富を得るのは天の恵みだろうか?
 温暖化のように地球に異変を起こし、地球を壊して天の恵みとは言えないのではないか。
 同じ資源の活用が、恵みにもなり罪にもなる。
 平安時代、【子供は遊びをせんとや生まれけむ】と歌われたが、今、同じように誰かがそれを歌ったら、どんな意味になるだろうか?
 地の変化に対応しないで意味の曖昧な図を書く我々。
 今日の地球の風景にどうしてもは思えない、ドバイの奇妙なマンション。同じような奇妙なビルをアメリカもロシアも作る計画があると言う。
 地の変化に無頓着で思考パターンを変えられない我々。私の言いたいことの根っこに、この事があるようだ。

【地】あっての【図】であり、【図】あっての【地】ではない。

(面白い事に、日本でも「地金」とか「図に乗る」のように

地や図の言葉がどこか似たような意味で使われる。)

 

 

 

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