世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
今、大事な事は
近所の居酒屋のおばさん
みかんが、なった。
上の娘が、子供の頃、みかんを食べた後の種を植えたものだ。これまであまり気にしてこなかったが、ここまで来ると、娘様様だ。庭に出たついでに、すずめの餌台の掃除をし、網戸の近くに3箇所新たに餌台ををつくって上げた。米びつに残った最後のカップ一杯のお米を(母ちゃんにナイショで)載せた上げた。
こわごわでもいいから寄ってきて食べるといいなー。
地球の胎動
このままでは地球はもたない。「時間は待ったなし。」と言う人もいるが、地球が再生の準備をし、予兆を我々に知らせているのかもしれない。
残念なのは、我々が予兆の意味がよく分かっていないことだ。ある意味で地球は神仏のようなものだから、我々の理解とは別に自然の法則をもとに再生しているのかもしれない。
地震などの天変地異が再生にどういう意味を持つかは分らないが、世界が行き詰まっている困難な問題は地球再生の予兆や胎動に見えなくもない。
地球的な視座を持てず、地球がこんなに壊れても、これまでの経済成長路線にしがみついていても、地球は待たず、 独自に動く。地球の自然治癒力、回復力のようなもので温暖化ガスを減らすには政策や技術より、原油が不足し、値段が高騰し、買えなく、使われなくなるのが1番効果的。
物価高騰と景気後退が合わさった世界同時不景気も同じような意味で、地球の回復力になる。
分け分らず、地球にに立ち向かう我々ははドンキ・ホーティのようでもある。ドンキホーティが怪我をしようとも、風車は風の力で何事もなかったように悠然と回る。
連日に暗く先行きのないニュースが伝えられる中で、我々がが、そっぽを向いてあくせくしているのを振り返って見ると、地球が誰よりも強い最高の味方ではないかと、心強く思いたくもなる。
だからと言って人間不信ではない。周囲には心温まることも数限りなくあるし、地球に呼応した動きも、以前とは比べ物にならないほど見られるようになってはいる。
只、どれも、新しい芽のように小さいから、芽が大きく育つまでは、地球を頼りにする。
無駄使い
このところ、国の予算編成や、役人のお金の使い方などで、「徹底して無駄を省き‥‥」のフレーズが与野党を超え、よく聞く。私等の子供時代から、アメを買ってぺろぺろなめてると親から「無駄使い」「買い食い」と言われたしなめられた。無駄使いを省く事に誰も異論はない。それが「無駄使い」と言う言葉なんだから。ところで、国会や報道されている「無駄使い」はかなり怪しい。まず、無駄かどうかの基準を聞いた事がない。道路特別財源にしろ、役人のタクシー代にしろ、関わる内側のヒトにとっては無駄ではない。その外側のヒトにとって他の物と比較して、無駄だと言うだけである。後期高齢者の医療保険も、内側にいる老人にとっては無駄ではなく、その外にいて、予算をやり繰りする人には無駄であったに違いない。歳出するどの予算も、全体を見なければ優先順位も無駄も必要も割り出せないはずである。家庭ならどこもそれをやる。国はどうか?骨太の方針(予算の枠組み作り)でも、その後のシーリング(各歳出内容の上限設定)も秋以降の予算編成も、全体把握の作業や論議はない。その流れの中で、この秋には消費税や環境税など税の見直しが行われる。そのテーブルに着く前に昨日首相は「消費税」云々」と言われたようだ。手順を飛ばし、正直と言えば正直だが、政界の常識を裏付けた一言だった。
こんな常識の中で「無駄を徹底的に省く。」と言ってもそれほど意味はない。
誰でも通ると思われる「無駄使い」の言葉も、温暖化のせいか、
意味を成さなくなった。
ドバイ
低炭素社会革命
二酸化炭素の排出量の削減の対策を政府は低炭素社会革命と名付けた。二酸化炭素の削減は可能でも炭素(C)の削減は可能か?高校で習った化学では、確か元素と元素の化合や、分解は出来ても、元素そのものを変えることはは出来なかったのではなかったろうか?原子力などの事もあるが、炭素を燃やして(酸化させて)炭酸ガスを発生させる化学変化では炭素はなくならないはず。まあ政策のネーミングだからいいと言えばいいが、後につけた革命と言いどこか、怪しげ。
子供達は、社会から炭素を減らすことが出来ると勘違いしないか?
権威と自由な発想
ちーさんが散歩中に出会った素敵な絵を書く画材屋のおばさんに、ちーさん「どうして美大へ行かなかったのにそんなに描けるの?」と尋ねたら即座に「だから、自由に発想できるのかな?」とニコニコ
答えていた。そのあと、技術がどうの‥とちいさんは話していたが、そのお上さんの言うのはその通りだと思い、嬉しくなった。
権威者とは、ある筋の範囲内で認められている人のことで、もともと、筋を超えた自由な発想とは相容れないのではないか。自由な発想を至上命題にした、権威(者)は成り立たないのではないだろうか。
地球も世界もヒトもかつてない場面に直面している。(乱暴な言い方になるが)かつてなかった新しい事態に権威(者)権威ってあるだろうか?
そんな権威者がいたら、今日に至っているはずがない。
ヒトビトが勝手に権威者がいると思って任せているに過ぎないのではないだろうか。
地球環境や世界の経済的危機から、アキバの事件を見るにつけ、その事を思わずにはいられない。
テクノロジー
ケニアで、日本の地図上の位置も分らない若者も「ニッポン」と聞けば即座に「テクノロジー」の言葉が返ってくる。ニッポンが世界の最先端の技術を持っていることは確かだろう。
サミットを前にして、環境問題で技術をアピールし世界に貢献すると言うメッセージを発してる。気になる事も幾つかある。
①炭酸ガス削減の技術を持った日本は現在、京都議定書の削減目標どころか逆に炭酸ガスを増やしている。果たしてどれだけの説得力を持つだろう?
②どの分野も「技術」は重要な要素として併せ持っている。 しかし、技術はその用いる意思によって 目的と逆の結果を生む。目的や用い方は大丈夫か?
③(話は飛んで) 教育や囲碁でも技術は、はき違いや、思考を停止させる一面がある。
炭酸ガス排出量削減の技術は有効な一面を持ちながら、技術の開発や移転を商売とし儲けるために、膨大な資本とエネルギーを使い、
環境悪化に作用しかねない。その動きを感じなくもない。
温暖化対策と経済成長路線の両立
日本も世界のどの国も温暖化対策は経済成長を前提或いは両立を前提に考えられているようだ。
先日のサミットへの提言と銘打った地球環境シンポジウムは、関係する内外のリーダーが集まって日本で行われた。
開会のスピーチは福田首相で、世界のそうそうたる?7名のメンバーによって討論された。福田首相始め司会の朝日新聞社社主の挨拶も含め全員が経済成長を基本的な前提条件とし温暖化対策との両立を求める主張ばかりだった。
本当に経済成長との両立以外方法はないのだろうか?
過日,NHKの特別番組の参加者は、経済成長を願う人と後退も止むなしとした人、望む社会像も都市集中型の技術社会と地方分散の自然社会と描く人は共に2分されていた。
要するに半分ぐらいの普通の人が感じたり望んでいる事が、政策以前の論議からもはずされている。
不公正と言うか手続き上の無理を感じる。
このような方法がうまくいくことは少ない。
どだい、そんな事で済む問題だろうか?
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