明応(1492~1501)頃成立の『七十一番職人歌合せ』には、
「暮露(ぼろ)と馬聖(むまひじり)は同じ」というような記述がある。
「馬聖」とは何ぞや? 「馬の病を治す祈祷師」などという説もあるが、
一向に判らなかった。
手がかりは「馬衣(うまぎぬ)」を着ている聖(ひじり)。
鎌倉時代(13世紀末頃)流布した『天狗草紙』(三井寺巻第三段)
「一向宗と云ひて、弥陀如来の外の仏に帰依する人をにくみ、
(中略)一向阿弥陀一仏に限りて、余行・余宗をきらふ事、
愚痴の至極、偏執の深くなるが故に、袈裟をば出家の法衣なり
とて、これを着せずして、(中略)或は馬衣をきて、衣の裳を
つけず、念仏する時は頭をふり肩をゆすりておどる事、野馬の
ごとし(以下略) 」
「一向宗」というと「一向一揆」。それで、蓮如の浄土真宗と思われて
いるが、蓮如自身「浄土真宗と一向宗は別」と云っている。
「南無阿弥陀仏」と唱えるのは同じだが、「一向宗」は一向俊聖に
始まる時衆(宗)の一派で踊りを伴う。時宗と云えば一遍上人だが、
この一遍とも違う一派があった。後に藤沢の遊行寺に統一され、
時宗=時衆=遊行宗となる。
滋賀県米原市番場の蓮華寺が本山。その開山の「一向俊聖」は
他宗の出家が付ける袈裟は着ず、「馬衣」を着たという。
これで判った。いや「馬衣(うまぎぬ)」というのがいまいち不明だが、
一向俊聖の踊り念仏から、「ささら、鉢叩き、放下僧」、さらに田楽
という芸能集団が生まれてくる。この芸能をもって旅する念仏宗の
面々が、「馬衣の馬聖=俊聖」の仲間と見られていたのだ。
「馬聖」は、踊り念仏を唱える者たちに共通する一般名詞となった。
だから、ささら者、放下僧、田楽、と「ぼろ」は同一視されていた。
『徒然草』や『ぼろぼろの草紙』に登場する「暮露(ぼろ)」は河原で
九品仏念仏踊りをやっていた。
「暮露」と「薦(こも)」は同族と見られていたが、最近、宗教的には
別という意見が有力になってきた。
江戸時代初期には、「暮露(ぼろ)と薦(こも)は同じ」という
説が定着していたが、両者は、もともとは別ものだったようだ。
「暮露」については、鎌倉時代の末に書かれた『徒然草』に
「ぼろぼろ」として登場してくる。この「ぼろ」は尺八を
吹かない。河原で九品念仏を唱える集団だ。
そして1500年頃、土佐光信によって書かれた『七十一番職人
歌合』には「暮露が馬聖と同じ」として書かれ、尺八は持って
いない。一方ほぼ同時期、同じく土佐光信が書いたとされる
『三十二番職人歌合』には「薦僧」が「尺八吹く他には別の
業なき者」と書かれている。
つまり「暮露」と「薦僧」が別職種として描かれているのだ。
では「暮露(ぼろ)」とは何ぞ。『徒然草』には「ぼろんじ、
梵字、漢字などと言ひけるものその初め」とある。
「梵字」がヒントとなって、「真言密教の“一字金輪の呪”
のうまくさんまんだぼたなんぼろん」を唱える集団では
なかったか」という説が浮上してきた。
「ぼたなんぼろん、ぼたなんぼろん」と108回、繰り返す
のみなので、「ぼろん字」と呼ばれたのではないだろうかという。