“終活”のひとつとして、緊急時の連絡先、訃報通知のための名簿の整理、
年金、保険、銀行口座、カード類などの記帳はひとまず終わり。次は
「牧原家の系図」作りです。先祖探しで集めた資料は段ボール10箱にもなり、
このままでは死ぬに死ねません。ブログに書いた゜記事も100件以上。
とりあえず、今まで書いた記事を順番に並べますので、関心の無い方は
カテゴリーで「虚無僧のこと」とかを選択して、他をご覧ください。
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私の「虚無僧の旅」は先祖探しの旅でした。先祖の足跡は、樺太から
北海道、青森、福島、東京、神奈川、千葉、静岡、愛知、岐阜、和歌山、
京都、大分、そして沖縄とほぼ全国に散らばっており、これまで行って
いないのは樺太だけとなりました。そこで発見した“驚くような”事実、
不思議な因縁の数々をぜひ、記録して残しておきたいと願うものです。
まずは、牧原家の概要を。
遠祖は新羅三郎義光に始まる清和源氏の流れ、武田の一族ですが、武田家の
衰退とともに徳川方に就き、浜松城主となった桜井松平の忠頼に仕官。
忠頼が若死にして改易となると、その後浜松城主となった水野重仲に、
水野が紀州徳川頼宣の付家老として新宮に移封されると新宮に。そして
徳川二代将軍秀忠の落胤「保科正之」が会津藩主となると、大量の家臣団の
募集があり、それに応募して会津藩に移籍。初代は三代藩主「正容」の
お小姓から側用人500石までなったのですが 、幕末の会津戦争の時は、
本家の一郎が300石、その弟が郡奉行150石でともに自刃。
明治以降一族は離散し、その子孫を探し求めてきました。
このブログやフェイスブックを通じて、何人かの子孫と連絡がとれました。
では、今まで各地を周り、ブログに単発的に書いてきたものを、遠い
先祖のことから順に並べてみます。
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山梨県の北杜市で「竹竹の会」があり、その帰りのことです。
「北杜市」は、小淵沢から長坂、武川までの町が合併してできた市です。
国道20号線を下っていくと、韮崎の手前に 「武川町牧原」という
交差点がありました。「まきのはら」と読むようです。
当家の系図に「牧の原の出で牧原と名乗る」とあるのと合致します。
このあたりは、武田の「武川衆」の支配地でした。その「武川衆」に
「牧原」姓を名乗るものが居たのです。
◆武川十二騎衆
教来石信保、米倉重継、島原、白須、山高親之、牧原、青木信立、
折井、柳沢信勝、山寺信明、宮脇種友、横手信国 の 諸家
(余談)
「柳沢」は、元禄赤穂事件の時、五代将軍綱吉の「側用人」として
権勢をふるった「柳沢吉保」の祖です。東京巣鴨の六義園は柳沢吉保の
邸宅でした。私が18歳の時、明暗尺八を富森虚山師に師事し、ここ
六義園内の建物で「吹き合わせ会」がありました。思い出の場所です。
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武田家は、八幡太郎義家の弟「新羅(しんら)三郎義光」を祖とする
清和源氏です。その「武田家系図」に「武田太郎信義から五世の孫
「時信」の子「八郎貞家」が「牧原の祖」となっています。
「武川衆」は、天正10年(1582)、 武田勝頼が天目山の露と消え、
武田家が滅びた後、こぞって徳川家康に仕えています。ところが
この時の「武川衆」の中に「牧原」姓はいません。ということは、
牧原が三河に移住したのは、武田勝頼滅亡より以前のこととなります。。
当家の祖が、いつ武田から徳川に鞍替えしたのか?。
考えられるのは、元亀4年(1573年)武田信玄が三河に攻め入り、
野田城を落とした後、病に罹り(野田城で被弾したとも)、2ヶ月ほど
鳳来寺に逗留しています。この時「武川衆」が、鳳来寺山の周辺を
探索したのではないか。というのは、「武川衆」は「金の採掘技術」を
もっていました。
武田信玄は、この後亡くなるのですが、牧原の祖が、鳳来寺のすぐ西の
松平郷に住みついたのは、この時期ではないか、と思われます。