現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

先祖探しの旅④ 静岡県の「牧の原城」

2017-05-22 21:27:27 | わが家のこと

当家の系図には「先祖は三河国・松平郷(ごおり)・牧ノ原荘の出」と
書かれています。「牧の原」と言えば、静岡県の現「牧の原市」。

東名に「牧の原SC」があり、お茶の栽培で有名です。それで長い間、
先祖の地は、静岡の「牧の原」と思いこんでいました。

名古屋に来て気づきました。あちらは「遠州、牧の原」でした。
それでも、「牧の原城」に 虚無僧で行ってきました。

東海道線「金谷駅」から急な坂を上り、広大な「牧の原台地」の
一隅に「牧の原城」がありました。中世の山城としては、その
遺構がかなりよく保存されています。

この城は、元は、武田方の出城で、武田の守護神「諏訪大明神」を
祀るので「諏訪原城」と呼ばれていたのです。

天正3年(1575)、徳川家康が攻めて奪い取り、その後を「牧野康成」に
守らせたため、「牧野の城」「牧の原城」と改名されたようです。

この「牧野」氏は、三河国宝飯郡中條郷牧野村(愛知県豊川市牧野町)を
発祥とする一族です。

「牧野」と「牧原」、関係ありそうな無さそうな、微妙です。


先祖探しの旅⑤ 当家の祖は「平石」姓だった。

2017-05-22 21:27:06 | わが家のこと

さて、それでは、当家の祖「平石」氏は、いつの頃から
「桜井松平」家の配下にいたのか。

『安城市史』5資料編、

天文18年(1549)一向宗(本願寺派)の「本證寺」門徒の連判状に、

「牧」姓の者が4人も おります。


この年、家康の父「松平広忠」は24歳で歿。家康は当時
まだ7歳。「竹千代」として駿府の今川義元の元に人質として
おり、安城は今川と織田の勢力争いの場となっていました。

1560年、桶狭間で今川義元が織田信長に討たれると、
家康は晴れて岡崎に帰還します。

しかし まもなく、三河一向一揆に苦しめられます。
三河一向一揆は、安城の「本證寺」他、本願寺末寺が
家康に敵対したもので、「桜井松平」は一揆方に加わり、
家康に対抗します。この時、家康の重臣の「本多正信」や
「蜂谷貞次(徳川16神将の一人)」も一揆側に付きます。
この「蜂谷」氏は 私の妻(旧姓「蜂谷」)の先祖です。

家康と一揆側が和睦した後、「桜井松平」は 松平の一族と
いうことで、所領は安堵されています。

徳川・松平の家臣には、「牧野」「牧」姓が結構おり、皆
「牧の原」の出と言い伝えています。同族なのでしょうか。
でも、その「牧の原」の場所が特定できません。

全国の「牧原・平石」姓の方、先祖のことをご存知でしたら、
ご連絡ください。


先祖探しの旅⑥浜松城主「松平忠頼」から「水野重仲」へ

2017-05-22 21:25:56 | わが家のこと

浜松城主となった「桜井松平家」の当主「忠頼」は、
慶長14年(1609)、江戸で旗本同士の喧嘩の仲裁に
はいさて殺され、お家断絶となります。27歳でした。

それで「牧原」の祖は 一時的 浪人になります。

その後、浜松城主となったのは、「水野重仲」でした。
水野重仲は、家康の母「於大」の実家の系統であり、
家康に重用されたのですが、それが裏目にでます。

身内ですから、家康の十男「頼宣」の「傳役(でんやく=子守)」
となります。養育、監督役ですから重要な職です。

1603年、「頼宣」は2歳で「常陸水戸20万石」を与えられます。
しかし、家康は「頼宣」を駿府の自分の膝元に置き、実際は、
「水野重仲」を派遣して、佐竹氏の後の常陸の統治を任せます。
この時の常陸時代の家臣に「牧原・平石」はいません。

その後 1619年、「頼宣」は、常陸水戸から紀州和歌山に
転封となります。この時、「水野重仲」は「付け家老」として
新宮城主となります。この時、浪人していたわが先祖も
採用され、新宮に移住するのでした。

水野の家臣にしてみれば、主君が 新宮城主とはいえ、
紀州徳川の「家老」になってしまったのですから、
その家臣は「陪臣」「又家来」といって、身分的には
一段低くなります。

わが祖先は「陪臣の身では将来が無い」と悲観して、
当時、新設された「会津保科家」に、わが子(15歳)を
小姓として上がらせたのでした。先見の明です。


先祖探しの旅① 「北杜市、武川・牧原」は先祖の地か?

2017-05-22 11:17:01 | わが家のこと

“終活”のひとつとして、緊急時の連絡先、訃報通知のための名簿の整理、

年金、保険、銀行口座、カード類などの記帳はひとまず終わり。次は

「牧原家の系図」作りです。先祖探しで集めた資料は段ボール10箱にもなり、

このままでは死ぬに死ねません。ブログに書いた゜記事も100件以上。

とりあえず、今まで書いた記事を順番に並べますので、関心の無い方は

カテゴリーで「虚無僧のこと」とかを選択して、他をご覧ください。

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私の「虚無僧の旅」は先祖探しの旅でした。先祖の足跡は、樺太から

北海道、青森、福島、東京、神奈川、千葉、静岡、愛知、岐阜、和歌山、

京都、大分、そして沖縄とほぼ全国に散らばっており、これまで行って

いないのは樺太だけとなりました。そこで発見した“驚くような”事実、

不思議な因縁の数々をぜひ、記録して残しておきたいと願うものです。

まずは、牧原家の概要を。

 

遠祖は新羅三郎義光に始まる清和源氏の流れ、武田の一族ですが、武田家の

衰退とともに徳川方に就き、浜松城主となった桜井松平の忠頼に仕官。

忠頼が若死にして改易となると、その後浜松城主となった水野重仲に、

水野が紀州徳川頼宣の付家老として新宮に移封されると新宮に。そして

徳川二代将軍秀忠の落胤「保科正之」が会津藩主となると、大量の家臣団の

募集があり、それに応募して会津藩に移籍。初代は三代藩主「正容」の

お小姓から側用人500石までなったのですが 、幕末の会津戦争の時は、

本家の一郎が300石、その弟が郡奉行150石でともに自刃。

明治以降一族は離散し、その子孫を探し求めてきました。

このブログやフェイスブックを通じて、何人かの子孫と連絡がとれました。

では、今まで各地を周り、ブログに単発的に書いてきたものを、遠い

先祖のことから順に並べてみます。

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山梨県の北杜市で「竹竹の会」があり、その帰りのことです。

「北杜市」は、小淵沢から長坂、武川までの町が合併してできた市です。

国道20号線を下っていくと、韮崎の手前に 「武川町牧原」という

交差点がありました。「まきのはら」と読むようです。

当家の系図に「牧の原の出で牧原と名乗る」とあるのと合致します。

このあたりは、武田の「武川衆」の支配地でした。その「武川衆」に

「牧原」姓を名乗るものが居たのです。

 

◆武川十二騎衆

 教来石信保、米倉重継、島原、白須、山高親之、牧原、青木信立、

   折井、柳沢信勝、山寺信明、宮脇種友、横手信国 の 諸家

 

(余談)

「柳沢」は、元禄赤穂事件の時、五代将軍綱吉の「側用人」として

権勢をふるった「柳沢吉保」の祖です。東京巣鴨の六義園は柳沢吉保の

邸宅でした。私が18歳の時、明暗尺八を富森虚山師に師事し、ここ

六義園内の建物で「吹き合わせ会」がありました。思い出の場所です。

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武田家は、八幡太郎義家の弟「新羅(しんら)三郎義光」を祖とする

清和源氏です。その「武田家系図」に「武田太郎信義から五世の孫 

「時信」の子「八郎貞家」が「牧原の祖」となっています。

「武川衆」は、天正10年(1582)、 武田勝頼が天目山の露と消え、

武田家が滅びた後、こぞって徳川家康に仕えています。ところが

この時の「武川衆」の中に「牧原」姓はいません。ということは、

牧原が三河に移住したのは、武田勝頼滅亡より以前のこととなります。。

 

当家の祖が、いつ武田から徳川に鞍替えしたのか?。

考えられるのは、元亀4年(1573年)武田信玄が三河に攻め入り、

野田城を落とした後、病に罹り(野田城で被弾したとも)、2ヶ月ほど

鳳来寺に逗留しています。この時「武川衆」が、鳳来寺山の周辺を

探索したのではないか。というのは、「武川衆」は「金の採掘技術」を

もっていました。

武田信玄は、この後亡くなるのですが、牧原の祖が、鳳来寺のすぐ西の

松平郷に住みついたのは、この時期ではないか、と思われます。

 


先祖探しの旅③「乙川の上流に牧原の地名」

2017-05-22 11:16:10 | わが家のこと

「武田一族に牧原姓」の者がいたことは確かですが、

当家の系図では、江戸時代以前は「平石」姓で「三河松平の荘・牧の原」の

出なので、新宮に移った時「牧原」と改姓したとあります。

となると「武田一族の牧原」とは関係が無いことになります。ザンネン。

では、「三河・松平の荘・牧ノ原」とは、どこなのか、いろいろ調べましたが

江戸時代以前の地図に、現在の豊田市周辺に「牧ノ原」という地名は

見つかりません。

父の葬式の日でした。それまでにわかった先祖の系譜をコピーして、

親戚一同に配り、愛知県の地図を見せていた時のことです。従兄の

「牧原源治郎」が「ここに牧原ってある!」と見付けてくれました。

感動と驚きでした。

豊田市の東、乙川の上流に 「くらがり渓谷」 という行楽地があり、

そこへ行く手前に「牧原」とあるではありませんか。

名古屋に戻って、さっそく行ってみました。

乙川に沿って 河岸段丘にわずかな田んぼがある 山間部でした。

10軒ほどの家がありますが、みな「山口」姓で、訊ねましたが、

「牧原」の地名の由来は判らないとのこと。

 

私は、ここが「系図」にある「三河・牧原」ではないかと 勝手に

思うことにしました。


武田から流れてきた先祖が住みつくには、都合のよい三間部です。

その時の姓は 「平石」でした。みずから開墾したので、地名は「牧原」

ですが、松平忠頼に召しだされて仕官した時は、武田の一族であることを

隠して「平石」を名乗ったのではないか。

そしてその後、紀州に移った時には、徳川は武田の遺臣を厚遇して

いましたから「牧原姓」に復姓した。と考えられないでしょうか。


武田信玄が没したのは 元亀4年(1573年)です。武田勝頼が織田信長と

徳川の連合軍に敗れた「長篠の合戦」は天正3年(1575)。

武田が滅びるのはその7年後の 天正10年(1582)。そして

その2カ月後には、織田信長が本能寺の変で明智光秀に弑されます。

すると信濃・甲斐の支配は大混乱になれます。

 

そしてそれから30年近く過ぎて、当家の祖は、浜松の城主「松平忠頼」に

仕えます。代も変わっているでしょう。この30年の間が不明で、

どうつながるのか、つながらないのか。手がかりがありません。