ブログが 5,700本にもなりました。種々雑多、とりとめもなく
書いてきましたので、カテゴリー別にまとめることとしました。
1.「牧原家の先祖」
2.「母方の山室家の先祖」
3.「虚無僧のルーツ」
4.「一休と虚無僧」
私の「虚無僧の旅」は、「先祖探しとその慰霊の旅」です。
尺八を吹いて、喜捨をいただきながら、全国どこへでも
行けるのですから、一石二鳥なのです。
先祖の足跡は、樺太から沖縄まで 18以上の都道府県に
散らばっています。
樺太、北海道、青森、福島、埼玉、東京、神奈川、
千葉、山梨、長野、静岡、愛知、岐阜、京都、
和歌山、大分、熊本、沖縄
このうち、まだ行っていないのは樺太だけとなりました。
江戸時代の後半、会津藩は、南下してくるロシアに
備えて、樺太の警備に当たりました。私の先祖も、
その任に就いての帰路、暴風雨に遭って船が難破、
一ヶ月半もかかって会津に帰っています。利尻島には、
会津藩士の墓があります。いずれ、行ってみたいと
願っています。
このブログは平成19(2007)年6月3日から始まっています。
この年の6月1日。「尺八本曲(虚無僧が吹いた尺八曲)の
全国大会」が、和歌山県、新宮市の「全龍寺」でありました。
「全龍寺」は、幕末から明治にかけての虚無僧「尾崎眞龍」の
菩提寺ということで会場に選ばれたのですが、行ってみて
知りました。ここは、江戸時代の初め、浜松から新宮に
移封されてきた[水野重仲」の菩提寺で、藩士たちも、ここに
葬られたとのこと。私の先祖も、水野家の家臣として、
新宮に来ていましたので、ここに葬られていたのです。
まさに“先祖の霊”に呼ばれたかと、体が震えました。
虚無僧の旅をしていて、このような不思議なめぐり合わせに
感動した経験は 数々あります。
そんな「紀行文」を『平成の虚無僧一路の旅』として、
まとめたいと思っています。
私の父方は「牧原」。母方は「山室」。
「牧原姓、山室姓の方、先祖について教えてください」と
以前書き込みましたら、何人かの方から連絡がありました。
ありがとうございます。
私の両親の先祖は会津藩士でした。会津藩祖「保科正之」は、
二代将軍「秀忠」の落胤で、正室「お江の方」の目を逃れて
信州高遠2万石余の保科家に預けられます。そして三代将軍家光の
代になって、家光の弟ということで、会津23万石の太守に抜擢。
石高で10倍の大出世。高遠藩の家臣は200名ほどしかいない。
それが23万石となると、家臣は3000人も必要となる。
そこで、2900人もの藩士を新規採用することに。
私の父方の祖「牧原只右衛門直源」は 紀州徳川家から移籍。
紀州藩としては、家臣団をリストラしたかったから好都合だった。
そして牧原只右衛門は 側用人(秘書室長)にまで出世した。
一方 母方の 山室丹後は「高遠以来の家臣」ではあったが、
城普請役。100石の土木課長止まりだった。それが長い間の
疑問でした。
数年前、山室氏は元は房総の国人だったことが判明。現千葉県
武市の山室城跡が残あります。
その山室一族は 家康の関東入国の際、「保科正直・正光」父子に
攻められて滅ぼされた。当主以下多くが討ち死にしたが、
「山室丹後守」は生き延びて、保科正光に登用される。
保科正直・正光はその後10年間、房総の多古一万石の城主と
なっていたのです。そして、1600年の関が原の功績で、
旧領の高遠にもどったのでした。
その後に二代将軍「秀忠」の落胤「保科正之」が 会津藩主となり、
山室も会津に移籍した。
つまり、母方の「山室」は「高遠以来の家臣」とはいっても、
保科に滅ぼされた国人だったので、「外様」扱いだったのです。
私のメールは goo3360_february@mail.goo.ne.jp
「牧原家の先祖探し」で集めた資料は段ボール10箱にもなり、
ブログに書いた記事も100件以上。今まで書いた記事を順番に
並べていますので、関心の無い方はカテゴリーで「虚無僧のこと」とかを
選択して、他をご覧ください。
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家康の母「伝通院於大の方」について。
東京文京区小石川に「伝通院」という寺があります。
家康が生母「於大の方」の菩提を弔うために建てた寺です。
「於大の方」は、三河刈屋城主水野忠政の娘で、岡崎城主
松平広忠と結婚し、竹千代(後の徳川家康)を産みます。
しかし、父水野忠政の後、刈屋城主となった兄信元が、
織田方に付いたので、今川の保護下にあった松平広忠と
離縁させられ、阿久比城主久松俊勝に再嫁します。
家康は終生、母「於大」のことを忘れず、実家の水野家、
再嫁先の久松家は、親類縁者として重用しました。
さて、その「於大」と「久松俊勝」との間に生まれたのが
「多劫(たけ)姫」です。ですから、家康と多劫姫は
異父同母の義兄妹となります。
この多劫姫(1553-1618年)も波乱万丈の生涯を送ります。
最初に嫁したのは「桜井松平家の忠正」。長男「家広」を
生んでいます。ところが、「忠正」が若死にすると、弟の
「松平忠吉」の妻となり、信吉と忠頼を生みます。
その「忠吉」も天正10年(1582年)に死去。
その2年後の天正12年「保科正直」に再々嫁し、保科正貞、
北条氏重、大涼院(黒田長政継室)、清元院(安部信盛室)、
貞松院(小出吉英室)、高運院(加藤明成室)の二男四女を
儲け、元和年(1618年)死去しました。
じゃ~ん。そうです、今NHK大河ドラマでやっていた
「黒田官兵衛長政」の妻は、この多劫姫と保科正直の娘です。
それより、多劫姫と先の夫の「桜井松平家の忠正」との
間に生まれたのが「松平忠頼」と知って、びっくり。
私の祖先「平石彦右衛門」は、この「松平忠頼」の家臣でした。
徳川家康が関東に入封した時、保科正光は、家康に付き従っており、
家康の命で、下総の山室氏を攻め滅ぼし、以後10年、下総の
多胡に留まり、関が原の後、信濃高遠藩の初代藩主となっています。
武田方の高遠氏の家臣だった保科が、いつ徳川に就いたのか。
ネットで検索していて「愛知県安城市」に「保科正直」の邸宅跡が
今に残り、史跡になっていると知りびっくり。
「保科正直」は「正光」の父です。
天正十年(1582)3月、武田家は滅亡します。その直後、
織田信長も本能寺の変で亡くなり、信濃、甲斐の各城は、
織田・徳川の家臣や北条、真田が入り乱れ、奪い合いで
大混乱に陥ります。そのどさくさの中、保科正直が高遠を
奪還します。保科正直は、当初北条に就き、妻を北条氏に
人質として差し出していたのですが、これを裏切り、
徳川家康に臣従し、妻を殺されます。
家康は、臣従してきた「保科正直」を哀れみ、義妹「多劫姫」を
正直の正室にしました。「多劫姫」は家康の母「伝通院於大の方」が
久松俊勝に再嫁して生んだ娘。久松俊勝の娘ですが、家康とは
異父同母の妹となります。ですから、保科正直は家康と
「義兄弟」の関係になったのでした。
それで、家康の招きで、三河安城に居を構え、家康の関東移封にも
付き従ったのです。
保科正直には、多劫姫を正室に迎える前、跡部越中守の娘を妻に
していました。その子が「保科正光」です。その正光の母は、
前述の如く、北条氏に人質として預けられていて、殺されます。
家康の子、二代将軍となった「秀忠」が腰元に産ませた子(後の
会津藩祖保科正之)を、旧武田の家臣の「保科正光」に託したのは、
「多劫姫」のつながりがあったからでした。
はじめて納得しました。
虚無僧尺八家のよりどころとなる「明暗寺」は現在、
京都・東福寺の塔頭「善慧院(ぜんねいん)」にあります。
「本曲吹禅大会」は、秋は京都明暗寺で、春は全国各地の
虚無僧ゆかりの寺で行っています。
新宮の全龍寺は、幕末最後の虚無僧「尾崎真龍」の菩提寺
とのことで、ここが選ばれました。私は高嶋さんを誘って、
御坊から由良の興国寺、田辺、勝浦と、虚無僧の旅をしながら
新宮に入りました。
新宮も、私の先祖の縁(ゆかり)の地です。何か手がかりを
求めて行ったのですが、ドンピシャ。「全龍寺」の御住職から
話を聞いて 震えました。なんと この寺は 新宮の初代城主
「水野重仲」の菩提寺で、「全龍」は[水野重仲公」の法名
とのこと。
「水野重仲」は、徳川家康の生母「於大の方」の血縁で、
家康公の信認厚く、浜松の城主でしたが、家康の十男
「頼宣」が「紀州藩主」に任ぜられた時、「御付家老」
として紀州に来、「新宮」城主となります。
尾張徳川の「御付家老」成瀬家が「犬山城主」となった
のと同じです。
「牧原家系図」によれば、
・先祖は、三河松平の庄「牧ノ原」の住人で「平石彦右衛門」と云った。
・平石彦右衛門の三男「平石勘右衛門」の時、「桜井松平」の
「松平忠頼」に仕える。「松平忠頼」は、美濃金山、武蔵松山の
城主を経て、浜松の城主となる。
・「平石勘右衛門は 500石 だったが、1609年、城主「忠頼」が
旗本同士の喧嘩に巻き込まれて殺され、改易(断絶・取り潰し)と
なった。そして「勘右衛門」は「忠頼」の後「浜松城主」と
なった「水野重仲」に召抱えられた。
・1619年、水野重仲は、紀州徳川頼宣の御付家老となり、新宮に
移封されるに伴い、「平石勘右衛門」も新宮に移る。
・「勘右衛門」は、新宮に移った時に「牧の原」の出身なので
「牧原」姓に改めた。
・妻は紀州藩士300石「井出三左衛門」の娘。1627年に次男
「牧原市郎兵衛」を生む。
(つづく)
新宮に行った時、図書館で、水野家の藩士録『物成帖』を
見せてもらいました。有りました。
1647年の項に「牧原勘右衛門 150石」。1659年の項に
「牧原仁左衛門 150石」と、二人の名前が。
「牧原仁左衛門」は、勘右衛門の家督を継いだ長男でしょう。
そして、当家の「系図」では、「牧原勘右衛門」の次男
「市郎兵衛直良」は「1627年、紀州和歌山で生まれ、
1643年 16歳で会津保科家に小姓として仕える」とある
のです。
平石彦右衛門--平石(牧原)勘右衛門--牧原仁左衛門
|
|-牧原市郎兵衛直良(会津藩へ)
この「市郎兵衛直良」以降は、会津藩の記録『家政実紀』に
時々記録されていますので、判ります。
では、兄の「牧原仁左衛門」は新宮に残ったのでしょうか。
その後の新宮には「牧原姓」は居りません。
しかし「平石」姓が 電話帳で調べて、新宮に9軒ありました。
現在、新宮に住まわれている「平石」さん。先祖のことを
ご存知でしたら、ぜひ教えてください。
和歌山県の田辺市立図書館に『新宮藩御勘定方旧記』という
古文書があった。虚無僧で行って見つけた。水野家の常陸時代、
遠州浜松時代、そして紀州新宮時代の「与力」の知行高が
記されている。
「徳川家康の第10子「頼宣」は、2歳の時、慶長8年(1603)
常陸水戸20万石の藩主に任じられるが、まだ幼児のため、
「水野重仲」が 御附家老となり、名代として水戸へ派遣される。
その時、水野重仲の「与力(加勢・協力者)」として12名の名が
載っているが、その中に「平石・牧原」の名はない。
その6年後、慶長14(1609)、浜松の桜井松平忠頼が 旗本同士の
喧嘩の仲裁にはいって殺され、改易(お家断絶)されたことにより、
水野重仲が浜松城主となり、常陸から転封してくる。その時、
浪人となってた旧松平忠頼の家臣を何人か召抱えたとある。
その中に、当家の祖「平石彦右衛門」がいたことになる。
その10年後の元和5年(1619)、徳川頼宣が紀州55万石の
太守に任じられ、浜松の水野重仲は、御附家老として紀州
新宮に3万5千石を拝領。「平石彦右衛門」の子「平石勘右衛門」が
新宮に移籍する。その「勘右衛門」が新宮移籍に際して「牧原」と
改姓しているのである。
その8年後、1627年、「勘右衛門」の三男として「牧原市郎兵衛」が
生まれる。この「市郎兵衛」が、16歳の時、1643年、会津藩祖
保科正之に仕え、御使番となっている。
1 平石彦右衛門 ・・・・・1609年 浜松城主「松平忠頼」から「水野重仲」へ
2 平石勘右衛門・・・・・・1619年 浜松から新宮に移籍して「牧原」と改姓
3 牧原市郎兵衛・・・・・・1627年 勘右衛門の三男として紀州で生まれ、
1643年 17歳の時 会津藩へ
4 牧原只右衛門・・・・・・1658年 会津藩江戸の芝屋敷で生まれる
「牧原市郎兵衛」が会津藩に召抱えられた年、1643年は、家光の弟
保科正之が出羽山形から会津23万石の太守となった年で、この時、
藩士の大量採用があった。一方、紀州藩では、家臣のリストラを断行
しようとしていた。双方の事情が合致した移籍したものである。
尚、父親の「牧原勘右衛門」は新宮に留まっていたようで、1647年の
「物成帳(家臣録)」に「150石、妻は井出三左衛門(300石)の女」とある。
また1659年の「物成帳」にも「牧原仁左衛門(150石)」とあり。
会津へ移ったのは三男の「市郎兵衛」だけで、「仁左衛門」は 新宮で
家督を継いだ長男か次男かと思われる。その後断絶したか、新宮に
「牧原姓」はいない。
ただし、電話帳を見ると、現在 「平石」姓が9軒もある。「牧原」と改姓
した「勘右衛門」は三男だったから、その兄たちの子孫か。ぜひ先祖の
こと、知っていれば教えていただきたい。
当家の系図の一番最初には「平石彦右衛門。浜松城主・
松平左馬介忠頼に仕え、奉行格、禄500石」とあります。
そこで「松平忠頼」について調べてみました。
「忠頼」は、愛知県安城市桜井を本拠とする「桜井松平」の
7代目当主でした。
「桜井松平」は家康の曽祖父「信忠」の弟「信定」を
祖とする 松平の分家。
「信定」から三代目の「忠正」の時、1572年 三方ケ原で、
家康が武田信玄に惨敗。明けて天正元年(1573)正月、
信玄が野田城を包囲した時、「忠正」は野田城におり、
武田の捕虜となる。その後、信玄は病に倒れ、4月に死去。
「忠正」は人質交換で帰還する。
その功により「忠正」は、家康の義妹「多劫姫」を妻とし、
天正5年(1557)「家広」をもうけるが、その年37歳で死去。
そこで「多劫姫」は、「忠正」の弟の「忠吉」と結婚し、
天正10年(1582)「忠頼」を産む。ところが、この年、
「忠吉」も死んでしまう。
天正10年は、武田が滅び、織田信長も本能寺の変で
明智光秀に討たれるという、大混乱の年。
甲斐、信濃は、武田の後、今川、北条、徳川勢が入り乱れて
混乱する。保科正直は、初め、北条に就いて、妻子を人質に
差し出していたが、後、徳川に寝返っため、妻子を殺される。
そして「正直」は家康を頼って、安城に来ていた。
それで「多劫姫」は「保科正直」に再々嫁させられたのでした。
「保科」は高遠の“一地方豪族”という思い込みがあったので、
安城の桜井松平に嫁いでいた「多劫姫」がどうして、信州まで
行ったのか、疑問に思っていた。「保科正直」が、安城に来て、
居館を構えていたとは、知りませんでした。これで納得。
慶長5年(1600)の「関が原」の時は「松平忠頼」18歳で
家康に従う。美濃金山1万5千石から、翌年には浜松5万石
と、松平諸家の中では最高の出世である。
当家の系図の冒頭に「三河、松平郷・牧原の出」とあるが、
その「牧原」の地を探し求めて半世紀。豊田市の東、「くらがり
渓谷」の手前に「牧原」というバス停を見つけました。
そして『三河国額田郡誌 全』大正13年 額田郡役所発行 に
次の記事を発見。
P.331 「宮崎村・石原字牧原に不動の瀧在り。本宮山北麓より
流下する乙川の清流、懸って 丈余(一丈=10尺=約3m) の
瀧となす。幽寂なる四囲と共に、夏なお寒きを覚ゆ。同所に祀れる
不動尊は武田信玄の守り本尊なりと云ひ伝ふ。傍らに碑石あり」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さてさて、三河の松平郷近くの「宮崎村・石原・牧原」(現豊田市)に
なぜ「武田信玄の守り本尊」だったという不動明王像があるのか。
ここからは、想像ですが。
武田の末流に「武川衆」というのがあり、その中に「牧原」姓の者もいた。
彼らは、国境周辺に出張って、諜報活動もしていた。武田信玄は
元亀3年(1572)12月、浜松の徳川家康を 三方原(静岡県浜松市)に
おびき出して破り、翌元亀4年、野田城を攻めたが、その時、城内から
発せられた鉄砲玉に当たって負傷し、鳳来寺山で一ヶ月静養。
病はますます重くなり、甲州に引き返す途中で死亡した。
遺体は諏訪湖に沈められたとも。
鳳来寺を武田が占拠していた時、武川衆の牧原が、ここ宮崎村に
に来たのではないか。その7年後の天正10年、武田勝頼が滅亡した後、
武川衆は徳川に臣従している。側用人として出世した柳沢吉保も
武川衆の一人。
当家の祖は、武田勝頼滅亡以前、信玄が死去した後に桜井松平家に仕官し、
後「水野重仲」、そして会津保科松平家に仕えた。
「牧原の先祖さがし」について、岡山在住の方から情報をいただきました。
なんと、岡山や広島にも「牧原姓」があるとのこと。
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父方の祖母の家系が、岡山藩やその支藩「鴨方藩」の元藩士です。
先祖は「鴨方藩主・池田家の守役」で5~600石取り。
また、広島藩浅野家の家老で「三次(みよし)代官の家系も
牧原姓です。その子孫は現在、広島市内の神社で神主を
しています。、安芸武田家の時代に中国地方に移って来たのか、
甲斐武田家滅亡の折に他家士官となったものか。
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いや、驚きです。以前「三次(みよし)市」の教育委員会主催で
尺八の演奏と公演に招かれて、行ったことがありました。まさに
先祖の霊に呼ばれてのでしょう。
というわけで、甲斐の武田の一族が広島にも移り住んで「安芸
武田家」というのがあること。その藩士に「牧原姓」がいたことを
初めて知りました。
Wikipediaによると
鎌倉時代の承久三年(1221)の承久の乱後、武田伊豆守信光が安芸守護に補任されている。
しかし、武田氏は甲斐国が本拠であり、安芸には代官(守護代)を送って在地支配を行っていた。
武田氏が安芸に下ったのは、建武の親政が成った建武元年(1234)、武田兵庫介信武が
安芸守護に補任されて以降。
南北朝争乱の時代、信武は足利尊氏に属して各地を転戦し、尊氏から安芸守護の地位を安堵された。
ということで、「芸州浅野家の家臣録」に「牧原姓」おりました。
牧原栄作………三次鉄方帖元⑳210
無役卒族267
牧原喜真太……天保10(1839)宮内少輔様用達役
③57B14
安政5(1858)歩行頭次席③63A28
(権左衛門)
牧原広右衛門…無役卒族312
牧原清次郎……所々番所詰⑳242
牧原忠大夫……側者頭添役次席238B7
慶応3(1867)先手者頭添役③71A1
先手者頭添役③114C10,⑳65
(文久3父権左衛門家督)
卒分隊長③142C23,24
牧原伝次郎……無役士族135
牧原伴右衛門…錠前番③154C3
牧原半右衛門…④81B1(正直)
牧原平八………慶応元(1865)側詰次席③74A22
(忠太夫)
牧原弥十郎……大隊長請引③148B26,122
④81B5(直尚)