現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

カラスなぜ鳴くの

2021-09-04 20:06:11 | 社会問題

「カラス研究所」のサイトに

「カラスなぜ鳴くの」と題して、「森に住むハシブトガラスは、
葉に隠れて見えないので自分の居場所を知らせ、お互いの
コミュニケーションをとるため、様々な種類の鳴き方する。
見通しのよい都会に棲むハシボソガラスは、あまり鳴かない」
とのこと。そういえば、京都の将軍塚で見たカラスの大群は
ギャーギャーすさまじかったが、名古屋のカラスは無言で
モクモク。



嫌われ者だが、「からす なぜ鳴くの、カラスは山に」の童謡
『七つの子』は尺八でも定番の人気メニューだ。
だが、この歌詞「七つの子」とは変だ。7羽も雛(ひな)がいる
のか?7歳なら もう十分成鳥だ。

野口雨情記念館の館長(雨情の孫娘)の話では、「雨情の子供が
7歳のころに作られた歌」であり、また「野口雨情が7歳の時
母親と別れたことから、7歳の子供への思いをカラスの子に
託して詩にした」のだそうだ。

嫌われ者のカラスではなく「人間の子供」であれば、人情味も
また違う。


『青い目の人形』

2021-09-04 20:04:53 | 私の尺八遍歴

青い眼の人形』は、『赤い靴』同様、野口雨情作詞、本居長世作曲で 1921年に発表された童謡。


青い眼をしたお人形は
アメリカ生れのセルロイド

日本の港へついたとき
一杯涙をうかべてた

わたしは言葉がわからない
迷ひ子になつたらなんとせう

やさしい日本の嬢ちやんよ
仲よく遊んでやつとくれ


1927年(昭和2年)緊張高まる日米の友好の架け橋になればと、米国人宣教師のシドニー・ギューリック氏の提案で、12,739体の人形が日本に贈られてきた。仲介者は渋沢栄一であった。この人形は、全国各地の幼稚園・小学校に配られて歓迎された。



その「青い目の人形」の多くは、太平洋戦争中、“敵性人形”として焼却処分されてしまったが、今323体が現存しているそうだ。

童謡の『青い目の人形』は、このアメリカから贈られてきた人形のことかと思っていたら、これまた とんでもはっぷん。野口雨情作詞、本居長世作曲で発表されたのは、これより6年遡り、1921年のことだった。

この歌がアメリカでも歌われ、それがギューリック氏の心を動かし、「日本に人形を贈ろうという提案につながったのでは」という推測もある。

10年ほど前、京都、嵐山の西、清滝を旅していて、廃業となった旅館の2階ガラス窓を見ると、「青い目のフランス人形」が空ろな目で外を見つめているのにでくわして、ぎょっとしたことがあった。その後、訪ねた時はもう建物もろとも無くなっていた。


 


「洞爺丸」沈没事故

2021-09-04 19:37:59 | 社会問題

昭和29年(1954)、9月26日、台風15号により、青函連絡船の「洞爺丸」が函館湾で沈没した。他に4隻の青函連絡船も沈没し、死者 1,430名。

1912年のタイタニック号(1,513名死亡)に次ぐ海難事故と、世界に報道された。

 



当時 私は6歳、小学1年。新聞報道や映画ニュースで その惨状を知った。その後、雑誌『小学○年生』だったか、船長の娘が語るというカタチで、事故の顛末が載った。絵が好きだった私は、その時の、洞爺丸と近藤船長のイラストに感動し、何度も模写したので、その記憶が鮮明に残っている。

「なぜ 台風の中、船を出航させたのか」という怒りの声が渦巻き、その怒りは、洞爺丸と運命を共にした船長に浴びせられた。

船長の妻は、夫の死を悲しむ暇もなく、連日遺体収容所に赴いて遺族の前で「近藤の妻です。大変申し訳ありませんでした」と泣きながら謝り続けたという。

事故直後、近藤船長の妻の声が発表された。
『夫はこれまで、どんな事態に直面しても、絶対に慌てた事はありませんでした。生き残った部下の方から、当夜 最後までブリッジに頑張り、仁王立ちになった夫の行動を知ると同時に、世間の批判は益々募るばかりでした。
夫の遺体は揚がらなくとも、乗客や船員の遺体は全部遺族の元に届けていただきたい』と。

船長の遺体は、一週間後、救命具を付けず、愛用の双眼鏡をしっかりと胸に握り締めたままの姿で発見された。それは明らかに、船長としての職務を全うした
“殉職”だった。

当時の気象観測技術では、台風の進路を正確に把握することはできず、船長の経験と勘による判断を“ミス”として責任を問うのは酷なことだった。

台風が北海道を襲うなんて稀れ。経験のない事態だったのだ。
だが、世論の批難を受けて、海難審判は「人為的事故」と結論づけた。


飢餓海峡と洞爺丸事故

2021-09-04 19:10:30 | 社会問題

水上勉『飢餓海峡』

「洞爺丸沈没事件」と「岩内大火」を題材に書かれた小説。

洞爺丸沈没事件から8年後、まだ記憶が生々しい昭和37(1962)年1月から週刊朝日に連載された。そして、昭和40(1965)年に 映画化された。

冒頭、洞爺丸の沈没で、無数の遺体が七重浜に打ち上げられるシーンが、モノクロの暗い映像で映し出される。あれは 当時のニュースの実写だったのだろうか。私が「洞爺丸事件」を記憶しているのは、この『飢餓海峡』の映像によるのかもしれない。

質店を襲撃し金を強奪した犯人「樽見京一郎」役が「三國連太郎」。それを執拗に追う刑事役が「伴淳」。絶妙のコンビだ。「別人に成り変って、事業で成功した犯人を追う刑事」という設定は、松本清張の『砂の器』と同じだ。(『砂の器』は、1960年5月から『読売新聞』に連載)

洞爺丸事故の死者数は、乗客・乗員1,314名中1,155名死亡。生存者は159名。ところが「氏名不明者」や「遺体の見つからない行方不明者」もいた。

当時、救難に当たった自衛官の話が興味深い。

「洞爺丸が沈没して多数の遺体が七重浜に流れ着くと、身元のよくわからない若い女性の遺体にすがりつき、自分は夫であると言って遺体を引き取って、国鉄からの見舞金を搾取しようとする男も現れた。そういうのは1人や2人にとどまらなかった。

殺した遺体を 紛れ込ませたり、そこで自殺して、補償金を得ようとすることも、あの混乱状況では、なんでもできただろう」と。

実際、「遺書」を持った遺体もあったが、事故死として補償金は支払われた。

3等客船の客には、青森と函館を往復する「かつぎや=ヤミ屋」が多かった。

戦後の人心荒廃した せちがらい世だった。まさに『飢餓海峡』は、そんな“闇の時代”に生まれた作品だったのだ。

 

飢餓海峡 予告篇

 

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「飢餓海峡」あらすじ

2021-09-04 19:06:41 | 社会問題

石川さゆり『飢餓海峡』は 水上勉の同名の小説『飢餓海峡』を歌ったもの。

私はこの歌が一番好きでござる。泣ける歌。

水上勉『飢餓海峡』 Wikipediaより転写

戦後まだ間もない昭和22年に北海道地方を襲った猛烈な台風により、青函連絡が転覆して多数の死傷者が出る。現場で遺体収容に従事した函館警察は、身元不明の遺体を2体発見する。それらの遺体は、連絡船の乗船名簿と該当しなかった。同日、北海道岩幌町の質店に強盗が押し入って大金を強奪したうえ、一家を惨殺し証拠隠滅に火を放つ。火は市街に延焼し、結果的に街の大半を焼き尽くす大火となった。
 
函館署の弓坂刑事は、身元不明の2遺体が質店襲撃犯3人のうちの2人であり、
強奪した金をめぐる仲間割れで殺されたと推測する。
 
青森県大湊の娼婦・杉戸八重は、一夜を共にした犬飼と名乗る見知らぬ客から、
思いがけない大金を渡される。悲惨な境涯から抜け出したいと願っていながらも現実に押しつぶされかけていた八重に、その大金は希望を与えてくれるものだった。
その後、犬飼を追跡する弓坂刑事が大湊に現れて八重を尋問するが、八重は犬飼をかばって何も話さなかった。
八重は借金を清算して足を洗い東京に出るが、犬飼の恩を忘れることはなく、
金を包んであった新聞と犬飼が使った安全カミソリ(映画版では犬飼の爪)を肌身はなさず持っていた。
 
10年後、八重はふと目にした新聞の紙面に驚愕する。
舞鶴で食品会社を経営する事業家・樽見京一郎なる人物が、刑余者の更生事業資金に3000万円を寄贈したという。記事に添えられた樽見の写真には、恩人・犬飼の面影があった。
 
八重は舞鶴に赴くが、樽見と会った翌朝、彼女は海岸に浮かぶ死体となって発見された。当初は自殺と思われたが、東舞鶴署の捜査官・味村刑事は八重の懐中から樽見に関する新聞の切り抜きを発見し、彼女の死は偽装殺人であると看破する。
彼の執拗な捜査によって、10年前の台風の夜に津軽海峡の海上で起きた殺人事件と八重の殺人が結びつく。
 

 

飢餓海峡 石川さゆり 2004年 Ishikawa Sayuri

2004年9月の映像 「飢餓海峡」(朗読付) 作詞・吉岡治、作曲:弦哲也 歌:石川さゆり、ギター演奏:弦哲也 朗読:石川さゆり

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「残侠子守唄」

2021-09-04 19:01:32 | 虚無僧日記

傷だらけの人生』と『人生劇場』そして残侠子守唄』、なんか似ていて混同する。

古い奴だとお思いでしょうが」の名セリフは、ご存知、鶴田浩二『傷だらけの人生人』

1963年 鶴田浩二主演の『人生劇場 飛車角』が大ヒット。「任侠映画ブーム」が始まる。

60年安保から70年安保へと学生の左翼運動が高まる中、一方で「極右」の「ヤクザもの」が流行った。左右両極の激しい時代だった。


残侠子守唄』は、1983年(昭和58年)歌:美空ひばり  作詞:たかたかし 作曲:弦哲也
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今日日(きょうび)寄らば「大樹の蔭」とかいう言葉が
巾をきかせているようでございます。楽をしようとする心が、
人間をだめにするのじゃないでしょうか。

 北の風吹きゃ北をむき
 西の風吹きゃ西をむく
 男の意地は どこにある
 浮いた世間に 媚(こび)をうる
 めだかみたいな奴ばかり  

時の流れとでもいうのでしょうか。
自分さえよければよいという手合が多すぎます。
まっとうに生きようとすればするほど
住みにくい世の中になったものでございます。

 声の大きい奴だけが
 勝って得する世の中さ
 男の道は 暗すぎる

どちら向いても 闇ばかり
どこに実のなる花がある
どこもかしこも、すっかり狂ってしまった
ようでございます。
と、申しましても、夜毎酒に溺れる私も、
決して、まともな人間じゃございません

すねに傷もつこのおれにゃ
まぶしすぎます お日様が
男の酒の ほろ苦さ
明日は どの色咲こうとも
おれは生きたい おれの道  

 

残俠子守唄/美空ひばり

 

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「これが目にはいらんか!」

2021-09-04 18:54:51 | 虚無僧日記

これ、老人ホームなどでの公演で使う小道具。

柄(え)の部分が刀の柄(つか)になっていて、鍔(つば)もありますから折りたたんでいると刀に見えます。開くと「傘」。熊本城で買ってきました。なんと中国製でした。

「水戸黄門」のテーマ曲「ああ人生涙あり」を吹く時に使います。でも、もう2年、コロナ禍でボランティア演奏もなくなり、今は埃をかぶってます。

 

ところで「桜吹雪の入れ墨は誰?」「この桜吹雪が・・・の続きは? 」と

尋ねると、みなさん反射的に「目にはいらんか」とお答えになります。

それは「水戸黄門」です。「この桜吹雪が・・」は遠山の金さん

このセリフの続きは、毎回違っていて「先刻ご承知だい」。

背中に咲かせた遠山桜。目ん玉ひんむいてよーっく見ろ!」も。

私が見たのは「しらねぇとは 云わせねぇぜ」でした。

遠山の金さん完全放送|時代劇専門チャンネル


野口雨情 『赤い靴』

2021-09-04 05:08:23 | Weblog

赤い靴 履いてた 女の子 異人さんに連れられて 行っちゃった

この曲は尺八によく合う。しかしまだ人前で吹いたことはない。
子供の頃、この歌から、私は潜在的に外人恐怖症になった。
赤い靴を履いている子は外人に連れて行かれる。外人は人さらいかと怯えたものである。英語嫌いになったのもそのせいだ。

太平洋戦争で負けた日本には、何千人もの戦災孤児やアメリカ兵との混血児が生まれた。

そうした孤児をひきとって養育していたエリザベス・サンダース・ホームの宣教師が、2千人もの孤児を、アメリカ人に養子として斡旋し、高額の金を得ていたことが問題視され、異人さんは「人買い」だと騒がれた。

私は「赤い靴をはいてた女の子」は、てっきり、戦後の話かと思ってた。

そしたら、『赤い靴はいてた』の歌は、1922年(大正11年)、野口雨情作詞・本居長世作曲で発表された童謡でした。

この歌のモデルがいたということが、1974年北海道テレビで放映された。「その子は 静岡県清水市生まれ、北海道に渡り、生活苦からアメリカ人牧師に貰われ、アメリカに渡るはずだったが、結核で、麻布の鳥居坂教会の孤児院に預けられ、9歳で亡くなったというもの。

番組を制作したのは、北海道テレビの記者「菊寛」で、1979年には『赤い靴はいてた女の子』という本も出版している。

その話を元に、日本全国ゆかりの地に「赤い靴の像」が建てられた。

1979年、横浜山下公園に『赤い靴はいてた女の子の像』が作られた。
1986年、日本平『母子像』
1989年、東京麻布十番『きみちゃん像』
1991年、北海道留寿都村『母思像』
2007年、北海道小樽市『赤い靴 親子の像』

ところがところが、この話は「菊寛」の捏造だという話も出てきた。
「あの文豪の菊寛が?」と思ったら、「文豪 菊寛」は1948年に亡くなっている。同姓同名の別人。記者の名前まで嘘くさい。

(補足)

コメントで、北海道新聞(テレビ)の「菊地寛」は「地」。文豪の「菊池寛」は「池」と字が違うとのご指摘をいただきました。