現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「尺八」の名称は「長さ1尺8寸から」の嘘

2022-04-19 10:35:16 | 尺八・一節切

「尺八の名称は、その長さが1尺8寸であることから」と、どの解説にも書いてある。中学の音楽の教科書にもそう書いてある。ネットで「尺八」を検索すると、すべてにそのように書いてある。判で押したように。そう、みなコピペしているからだ。

ちょっと詳しいのになると、

『旧唐書』列伝の「呂才伝」に「7世紀はじめ、唐の楽人である呂才が、筒音を十二律にあわせた縦笛を作った際、中国の標準音の黄鐘(D)が1尺8寸だったから “尺八”と名付けた」と。

ところがこれでは、法隆寺や正倉院に伝来した古代の尺八が、みな1尺3寸前後で不揃いであることの説明ができない。

そこで、唐代の「小尺」は8掛けで、現代の「1尺4寸」が「1尺8寸」だったと苦し紛れの詭弁を弄す。すると、

それでは「D=1尺8寸」を基準とするという説明と食い違ってしまう

誰も「原典」を確認していないのが問題。ネットで探して見つけた。

 



『舊(旧)唐書』とは、200巻からなる膨大な書物で、その中の「列伝」150巻には何百人もの人物が載っており、第29の中に「呂才」についての記述がありました。

『舊(旧)唐書』「列伝第二九 呂才傳」には

「能為尺八十二枚,尺八長短不同,各應律管,無不諧韻」とだけ書かれていました。

つまり、呂才は「長さの違う尺八を12本、それぞれ12律に合わせて作ったというのです。

呂才


どこにも、「1尺8寸を基準にして『尺八』と名付けた」とか呂才が『尺八』を始めて作った」とは書かれていません。

尺八は、以前からあったのを、長さ不ぞろいで、音程がメチャクチャだったので、「呂才が12の音律に合わせて12種類の尺八を作った」いうのです。

 


「西郷」どんの名前は「隆盛」ではなかった

2022-04-19 10:33:45 | テレビ・映画・芸能人

「西郷隆盛」の「隆盛」は、実は父親の名前だった。
本名は「西郷吉兵衛隆永」だそうだ。

幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変え、
元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄。それが、明治になって
位階を授けられる際に、役人が 誤って父親の名前「隆盛」で
届けたため、それ以後は 父の名を名乗るようになったという。
さらに、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの
変名も名乗ったことがあった。

「坂本 龍馬」も通称で、諱(いみな)は直陰(なおかげ)、または
直柔(なおなり)。変名は「才谷梅太郎」「西郷伊三郎」「高坂龍次郎」
「大浜涛次郎」。「取巻の抜六(とりまきのぬけろく)」なんて
いうのもある。「西郷伊三郎」が「坂本龍馬」とは、誰も判るまい。

「木戸 孝允」と「桂 小五郎」が 同一人物であることはよく
知られている。「徳川家康」も、「(幼名)竹千代」から「松平元信」、
「元康、家康 、 徳川家康」と変えている。

さて、かくいう私も、親がつけてくれた名前は「伸一郎」。
以前は「牧原龍生」と名乗っていたこともあった。「牧(ボク)
原(はら)龍(たつ)生(ぜい)」。つまり「僕、腹立つぜい」。
「若気のいたり」で、因習的閉鎖的な邦楽界に牙を向けていた。

今は「腹を立てず」と誓って、「龍生」をやめ「一路」と
改めた。

かつて邦楽評論家に「藤田伶朗」という人がいた。これは
尺八の音名の「レーロー」を「竹号」にしたもの。一人で
「邦楽雑誌」を編集出版しており、「小山宗介(おやまそうかい)」
「有賀泰寧(ありがたいねぇ)」など、いろいろな名前で、
いくつも記事を載せていた。みな一人の人物だったのだ。

ペンネームにもそんなユーモアがほしいですね。


生き物の数え方

2022-04-19 10:33:06 | 虚無僧日記

SF作家であり『天地明察』で脚光を浴びた
「沖方丁」が「ものの数え方」について書いている。

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子どもたちから 新鮮なものの見方を味わうことが
しばしばである。子供は質問が多い。

「なんで動物は一匹二匹っていうの?一個じゃダメなの?」
「馬は一頭、魚は一尾、鳥は一羽、なんでそう言うの?」。
「なんでだろうね」
「食べた後、飾るからかなぁ」
「尻尾や羽を?」
「うん」

意表を突かれた。
確かに「頭」も「尾」も「羽」も、食べ残る部分。
死んだ後も残る部分だ。蟹は一杯、二杯。「杯」は
蟹の甲羅のことでもある。蹄(ひづめ)のある馬は
「一蹄(てい)」と数えることもあった。

では人は?
ふと、考えた。命を終えてなお残るものは・・・・。
「名」だ。「一名、二名・・・・」。
人だけの数え方だ。そう気づき、まだ幼い子供にも
胸を突かれる思いを味わされたのだった。

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な~るほど。モノの数え方は、三味線なら「棹(さお)」
箪笥も「棹」、琴は「面(めん)」、尺八は「管(かん)」
まったく日本語はたいへん。

でも生き物の数え方が、“死して残るもの”とは
すばらしい着眼。「沖方丁」の感性には感心する。
いや、この場合は 彼の子供か、おそるべし。


ついでに、こんな「小話」を聞いたことがある。

漁師が「烏賊(イカ)一杯 買ってくれ」と泣きついてくる。
「なんだ一杯くらい買ってやろう。一杯いくらだ?」
「百万円」
「?????」

そう「イカ一匹」は「一杯」と数える。船も「一艘
=一杯」と数える。「イカ一匹」と思ったのが「船
一艘分」だったのだ。それこそ「いっぱい」、いや
「失敗」だ。


日本人の「ニセモノ魂」

2022-04-19 10:32:47 | 虚無僧日記

中国では、フカひれも蜂蜜も偽物とか。口に入れるものだけにいただけない。

ところが、日本も偽物王国。その技術は「ニセモノ魂」と絶賛されているとか。

たとえば「金箔(きんぱく)」もどきの「真鍮(しんちゅう)箔」。 

金箔といえば、加賀だが、その金沢市内で「真鍮箔」を作る
店が2軒。その2軒で 全国の「真鍮箔」の 100%を占める。

「金箔」同様、銅と亜鉛の合金「真鍮」を叩いて、厚さ一万分の
三ミリほどにするのだが、その技術は「金箔」と違って、
おいそれと真似できない。「真鍮箔」を打てる職人は もう
10年もすれば居なくなるとのこと。

「真鍮箔」は、見た目は「金箔」と同じ。職人でも区別できない。
それで、値段は金箔の五~十分の1だから、廉価な土産物に
使われる。しかし、数年で酸化して変色してしまう。硝酸を
かければ溶けるので、それで見破られる。

「金」かと思って買ったら、そのうち変色して「真鍮」だった
という苦い経験は私もある。安いと「金」のはずはないと
誰でも判断できるはずなのだが・・・・。


は最近話題の「偽装食材」もすごいことに。

100円均一の回転寿司で出されるネタは、みな“まがいもの”だそうだ。

「車えび」が「ブラックタイガー」、「芝えび」が「バナメイエビ」
だとか。でも、「見た目も味も変わらないなら いいじゃないか」
と私は思ってしまう。

さらに、極めつけは「合成肉」。オーストラリア産の硬い肉が
「インジェクション」と呼ばれる機械によって、極上の「霜降り」に
化ける。その技術は半世紀も前からあり、ハムの製造などに広く
使われてきたそうだ。ホテルなどで、そのままの肉を出すと、
お年寄りなど「硬くて食べられない」という苦情になる。ならば、
やわらかく、味も良い肉に仕上げて出したいというのが 料理人の
思いだ。

私も近年、ホテルやレストランで出される肉が、やわらかく、
ナイフで切らなくとも箸で崩れる。変だなとは思っていた。
しかし、それで、おいしく、しかも安く食べれたのだから
いいじゃんと思うのは 私だけか?。

「偽もの」をより「本物らしく」見せる涙ぐましい努力。
中国のそれは いただけないが、日本人の「ニセモノ魂」には
なぜか共感してしまう。

ついでに駅弁の「鱒(ます)寿司」は「シャケ」だそうだ。
もともと「鱒」も「鮭」も同種とか。
「鴨なんばん」は「鴨」の肉ではなく「鶏肉」。

刀の柄(つか)に巻かれる「鮫(サメ)皮」は、実は「エイの皮」とか。
でも、ちっとも問題になってはいない。


小さな嘘はバレるが大嘘には皆騙される

2022-04-19 10:31:38 | 虚無僧日記

「法竹(ほっちく)」というのは「海童道道祖」の造語。
「普化宗管長」というのは「詐称」。「海童道道祖」のことを
「稀代の詐欺師」と書いたら、「海童道道祖」の信奉者は
激怒されることでしょう。「あなたの真意を聞かせてください」
とのコメントもいただきました。

私の真意は「海童道道祖」は「不世出の天才」であり、尺八を
世界に広めた功績は はかり知れなく「尺八界の救世主」。
その「前衛哲理」は、尺八の深奥なる真髄を明らかにして、
自らの実践で、我々に進むべき道を示してくれた。まさに
「尺八“道”」を打ちたて、切り拓いた「道祖」として
崇めるべき超人であると尊崇しております。

私自身「虚無僧」を自認していますが「虚無僧」も「詐称」です。
私が「虚無僧」というのは小さな嘘です。小さな嘘は すぐ
見破られます。「僧」と云いながら「僧ではない」と。

しかし「海童道」の「普化宗管長」という肩書きには、誰もを
納得させるものがありました。「普化の再来」と自他ともに
認める実践があったからです。「海童道道祖」は、われわれ
「道曲」に憧れる者たちにとっての目標ですが、その真似を
したところで、永遠に到達できない、他の追随を許さない
高い境地です。

そもそも「禅」と「尺八」は無関係です。「海童道」は、
日本古来(伝統)の「禅」でも「虚無僧」でもない、
そんなものとは違う、それを超越した全く別の世界と、
私は云いたいのです。

日本では、「海童道」の「道曲」は吹きたいが「道祖」の後に
続こうという人はごくわずかです。私の知る限りでは、
伊那の山中でひたすら「法竹吹定(ほっちくすいじょう)」に
専念している「児玉竹坐」師しかいません。

最近になってようやく「道曲」の『手向』や『産安』などを
吹く人が増えてきましたが、私も含めて「海童道」とは
似て非なるもの。次元が違いすぎます。ただ「曲」として
譜面をなぞっているところです。「道祖」は「譜面をなぞる
吹き方は海童道とは違う」と明言しています。

日本では サッパリうけない「海童道」の「法竹吹定」が
アメリカやロシアで素直に受け入れられ、それらしく
振舞っているいる人たちがいることには驚きです。
世界は広い。「海童道」は日本を飛び出して、世界に
根を降ろしつつあります。「道祖」はそれだけ偉大な
存在でした。