古典落語に『一目上がり』というのがあるそうな。
長屋に住む八っつあん。隠居さん宅で、床の間の掛軸に目をやった。
『雪折笹』の図に「しなわるるだけはこたえよ 雪の笹」と書かれてある。
隠居いわく「これは画に添えた賛(サン)というもの。雪の重みに
しなって耐えている笹竹も雪が融ければ元の通りに立ち直るように、
人間も苦難に遭遇したときこそ辛抱が大切であるという教訓じゃ」と。
次に 八っつあん。大家さんのところへ行く。
大家の家の床の間には、「近江(きんこう)の鷺は見がたし、遠樹
(えんじゅ)の鴉(からす)は見やすし」の字が書かれてあった。
「雪の中にいるサギは、近くであっても見つけにくいものだが、
遠くにいるカラスは小さくともすぐに目につく。善行はなかなか
認められないものだが、悪事は目立つものだ、だから悪事はできない
という意味である」と、大家は言う。
そこで八っつあん、「結構な賛(サン)でございますな」というと、
大家さん「いや、これは根岸の蓮斉先生の 詩(シ)だ」。
八っつぁん「今度は『シ』と言おう」と思って医者のところへいく。
医者の家の床の間には、
「仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は祖師を売る。
汝五尺の身体を売りて、一切衆生の煩悩を済度す。柳は緑、
花は紅の色いろ香。池の面に月は夜な夜な通へども 水も
濁さず影も止めず」と書かれていた。
八っつあん、字など読めないが「結構な詩(シ)でございますな」と
ほめると、医者は「いや、これは一休禅師の悟(ゴ)だ」と。
「サン、シ、ゴと来たから、今度は六か」と、八っつあんは
友人宅へいく。
友人宅には、にぎやかな七人の絵に「なかきよの とおのねふりの
みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」という回文
(=逆から読んでも同じ文)が添えられていた。
八っつあんは、感心しながら「へえぇ、結構なロクですなぁ!」、
友人「いいや、七福神だ」[4]。
またまた失敗。「七の次は八か?」と、ぶつぶつ言いながら
古道具屋さんの前を通ると、額に「古池や 蛙とびこむ 水の音」。
それを見て八っつあん「結構なハチで」。「芭蕉の句(九)だ」。
この話、七番目が「質(七)流れ品だ」で落とす、とも。
ところで、「八っつあん」の名前は?「八五郎(8560)」
でしたか?「七」がない。
ついでに「質屋」のことを「一六銀行」。他に[十一」というのは
ご存知でしたか。「七」の文字は分解すると「十」と「一」。
私は「十一(といち)」は「10日で1割の利息」の意味と
思ってました。