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杵屋正邦作曲 尺八独奏曲三部作の内「吟游」
昭和39年(1964)東京オリンピックの年、山本邦山、青木静夫(鈴慕)、横山勝也の三氏が流派の枠を超えて「尺八三本会」を結成。そして「日本音...
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昭和39年(1964)東京オリンピックの年、山本邦山、青木静夫(鈴慕)、横山勝也の三氏が流派の枠を超えて「尺八三本会」を結成。そして「日本音楽集団」が結成され、NHK/FMでは「現代の日本音楽」で、毎週、和楽器を使った創作曲が放送されるようになり、尺八界に革命が起きた。 洋楽系の現代作曲家が和楽器を使った曲を次々作曲するなか、「杵屋正邦」は、尺八界とは畑違いながら、尺八独奏曲「流露」「吟游」「一定」を始め、尺八三重奏「風動(第一、第二、第三、第四」等を次々に作曲し、尺八界に新風を巻き起こした。 「尺八三本会」の公演では、毎回新たな試みをもった曲が発表された。「吟游」の初演も青木静夫(後に鈴慕)だった。私は客席の最前列、中央で、舞台にかぶりつきでこれを聞いた。 出だしの「チーロー、チーロー」にまず驚いた。尺八は吹き始めにアタリを付ける。「レチー」と。そのアタリが全くない。そして「チー」4拍まっすぐに伸ばす。尺八家は大方すぐ揺らしたりする。それが全くない。これは尺八家にとっては至難の技。それは新鮮だった。そのあとで腰を抜かさんばかりの重音がビリビリびりーと鳴り響いた。 実は昭和20年代だったか、上田流の始祖「上田佳山((芳憧)師」が「尺八で一度に二つの音が出せたら5万円の懸賞金を出す」と会報に乗せていた。当時の5万円は50万円以上か。誰がどうやっても二つの音を出すのはできないと思い込んでいた。それを、青木師はやってのけたのだ。 演奏会が終わって、学生三曲連盟の面々が喫茶店に集まり、重音の話題でもちきりだった。 そしてある人が云った。「第2孔だけを開けて出すんだ。次は3孔だけ開けて出す」と。そしてその日のうちに、私も含めて、その場に居合わせた何人かは重音をマスターしてしまった。 私の学生時代は、尺八の進化とともに歩んできた。あの感動を今に残すべく、50年経っての挑戦です。