會津に転籍した「牧原市郎兵衛」には三人の男子あり
長男「牧原勘右衛門」 1731年 長柄頭 會津牧原の本家筋で幕末300石
次男「牧原只衛門」 1658年生幼名「平助」「与一郎」当家の祖
三男「杢左衛門貞内」 1698年 15石3人扶持 中間(下僕)を誅伐し謹慎
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当家の祖「牧原只右衛門」の事跡
万治元年(1658年) 市郎兵衛の次男として会津藩江戸の芝屋敷で生まれる
寛文 8 (1668) 10歳 市正(?)様の御小姓となる
『家世実紀』巻之31 寛文8年(1668)5月の項
市正様 湯治のため 初めて会津に下向。5月25日江戸を御発駕
お供の御小姓9名の中に「牧原平助」10歳
6日余りで6月1日會津御到着
寛文11(1671)13歳 保科正之の六男「正容(後の三代目藩主)の御小姓となる
元禄10(1697)40歳 御内証御用人役
久千代様生母の「おもん之方」二之丁御賄所に押し込められる
(実家の)榎本父子 江戸幕府へ直訴に及ぼうとする。
御内証用人 牧原只右衛門 榎本父子の処分を告げる
元禄14(1701)44歳 御用人仰せ付けられる
宝永2(1705)『家世実紀』巻之90
8月13日 正信を「正容」と改める
御家老「梶原平馬」。御用人「牧原只衛門」
宝永3年(1706) 6月7日 御袋様(お祐の方)御継室に昇進、
叔父横山九右衛門 格式奉行之上 仰せつけられる
6月10日 御用人杉本源五左衛門 格式奉行之上に昇進
宝永5年(1708) 12月6日 (おもんの子)久千代君疱瘡にかかり逝去
国元で幽閉されている「おもん」に 久千代の死を伝える
宝永6年(1709) 8月18日 御用人 諏訪伊助、牧原只衛門、田中治大夫の三人に
長坂平左衛門が加わる
正徳 2(1712)55歳 500石
正徳 3(1713)56歳 格式奉行同様に昇進
5月13 日 殿の勘気を蒙り、会津の二の丁賄い所に逼塞させられていた「おもん」
赦免され、兄榎本太左衛門に預けられる。それを伝達したのが牧原只右衛門だった。
5月19 日 御使番 神尾八之丞に下げ渡される。
正徳 5(1715) 58歳 御用人牧原只右衛門 会所に出座 仰せ付けらる。奉行之格
享保元 (1716) 御使番神尾八之丞に下賜されていた「おもん」離縁。弟の榎本庄左衛門方へ引き取られる。
享保 5 (1720) 63歳 奉行職
享保16 (1731) 74歳 殿様(正容)御容態急変により登場お次間に詰める 翌9月10日 ご逝去
享保17(1732) 75歳 只衛門の倅「多治見」病身につき、栄光院様の思し召しにより、
横山滝右衛門の次男「林之助」を養子にいたし、多治見の娘(只右衛門の孫娘)と結婚
享保19(1734) 77歳 牧原只右衛門 奉行職15年相勤め、歳77になり、老衰に及び、
依願によってお役御免 64年に亘る精勤に、前例の無いことだが、御帷子一重拝領
元文元 (1736) 79歳 隠居 家督を孫娘の夫「林之助」に譲るが、
翌元文2年(1737) 林之助改め「帯刀直福」は江戸において24歳で病死す
延享 4(1747) 90歳 病死