昭和16年5月30日 新潟慰問団
NHK「わらわし隊の戦争」を見て、戦中慰問団に関心を持ち いろいろ調べてみました。
慰問団は、吉本興行だけでなく、映画俳優も地方の温泉芸者も、また、各県、各市ごとでも結成され、派遣されていたようです。
父の所属していた歩兵第116連隊の記録にも、慰問団のことがしばしば登場します。
昭和16年5月12日 映画慰問団宜昌へ帰る
5月30日 新潟慰問団来る
5月31日 慰問団第二大隊へ
6月13日 第二大隊へ「特殊慰問団」来る
はて「特殊慰問団」とは何でしょう? 調べてみましたが不明です。
性を売るのかと想像してしまいます。
11月 5日 夕刻慰問団来る。「ハイカラ」にして新しきも、
郷土色稀薄なり
やはり、「郷土色」が望まれていたのでしょうか。
父は福島県会津若松の出身だったので、故郷 福島の飯坂温泉から芸者連中の慰問団が来た時は なつかしく大歓迎。
「衣食住は経理室の役目だから」と 彼女らの世話を 経理室に与えてもらった。経理室の連中の喜びようといったらない。風呂焚き役は奪い合いになった。夜は経理室一堂、彼女らと会食し、日頃の憂さを忘れ 楽しい一夜となった」とある。
さて、この先は、とても公表できない内容です。(が、あえて・・・)
その慰問団の団長が「戦地の土産話に、ひとつ頼む」と要求してきたのは、・・・・・。
なんと、中国人の首を斬ることです。
中尉が 捕えていた少年を連れ出してきて・・・・・・。
父は少尉でしたので、父祖伝来の名刀「会津三善(みよし)長道」を軍刀に仕立てて携行していました。その「軍刀を貸してくれ」との要求に
父は「父祖伝来の刀、もし刃こぼれしたら どうしてくれる」と言って断った。 当時、にわか作りの[昭和刀」は戦地では すぐサビて使い物にならなかった。ホンモノノの刀はサビずに輝いていたとのこと。
まったく、市民をも狂気にさせる戦争、ホントにアホらしく、
バカバカしい。許せんことです。