私の父方は「牧原」。母方は「山室」。
「牧原姓、山室姓の方、先祖について教えてください」と
以前書き込みましたら、何人かの方から連絡がありました。
ありがとうございます。
私の両親の先祖は会津藩士でした。会津藩祖「保科正之」は、
二代将軍「秀忠」の落胤で、正室「お江の方」の目を逃れて
信州高遠2万石余の保科家に預けられます。そして三代将軍家光の
代になって、家光の弟ということで、会津23万石の太守に抜擢。
石高で10倍の大出世。高遠藩の家臣は200名ほどしかいない。
それが23万石となると、家臣は3000人も必要となる。
そこで、2900人もの藩士を新規採用することに。
私の父方の祖「牧原只右衛門直源」は 紀州徳川家から移籍。
紀州藩としては、家臣団をリストラしたかったから好都合だった。
そして牧原只右衛門は 側用人(秘書室長)にまで出世した。
一方 母方の 山室丹後は「高遠以来の家臣」ではあったが、
城普請役。100石の土木課長止まりだった。それが長い間の
疑問でした。
数年前、山室氏は元は房総の国人だったことが判明。現千葉県
武市の山室城跡が残あります。
その山室一族は 家康の関東入国の際、「保科正直・正光」父子に
攻められて滅ぼされた。当主以下多くが討ち死にしたが、
「山室丹後守」は生き延びて、保科正光に登用される。
保科正直・正光はその後10年間、房総の多古一万石の城主と
なっていたのです。そして、1600年の関が原の功績で、
旧領の高遠にもどったのでした。
その後に二代将軍「秀忠」の落胤「保科正之」が 会津藩主となり、
山室も会津に移籍した。
つまり、母方の「山室」は「高遠以来の家臣」とはいっても、
保科に滅ぼされた国人だったので、「外様」扱いだったのです。
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