昭和29年(1954)、9月26日、台風15号により、青函連絡船の「洞爺丸」が函館湾で沈没した。他に4隻の青函連絡船も沈没し、死者 1,430名。
1912年のタイタニック号(1,513名死亡)に次ぐ海難事故と、世界に報道された。
当時 私は6歳、小学1年。新聞報道や映画ニュースで その惨状を知った。その後、雑誌『小学○年生』だったか、船長の娘が語るというカタチで、事故の顛末が載った。絵が好きだった私は、その時の、洞爺丸と近藤船長のイラストに感動し、何度も模写したので、その記憶が鮮明に残っている。
「なぜ 台風の中、船を出航させたのか」という怒りの声が渦巻き、その怒りは、洞爺丸と運命を共にした船長に浴びせられた。
船長の妻は、夫の死を悲しむ暇もなく、連日遺体収容所に赴いて遺族の前で「近藤の妻です。大変申し訳ありませんでした」と泣きながら謝り続けたという。
事故直後、近藤船長の妻の声が発表された。
『夫はこれまで、どんな事態に直面しても、絶対に慌てた事はありませんでした。生き残った部下の方から、当夜 最後までブリッジに頑張り、仁王立ちになった夫の行動を知ると同時に、世間の批判は益々募るばかりでした。
夫の遺体は揚がらなくとも、乗客や船員の遺体は全部遺族の元に届けていただきたい』と。
船長の遺体は、一週間後、救命具を付けず、愛用の双眼鏡をしっかりと胸に握り締めたままの姿で発見された。それは明らかに、船長としての職務を全うした
“殉職”だった。
当時の気象観測技術では、台風の進路を正確に把握することはできず、船長の経験と勘による判断を“ミス”として責任を問うのは酷なことだった。
台風が北海道を襲うなんて稀れ。経験のない事態だったのだ。
だが、世論の批難を受けて、海難審判は「人為的事故」と結論づけた。