7月3日の豪雨で、熱海市伊豆山地区に土石流が発生、甚大な被害が起きた。
この伊豆山に松井石根が私費を投じて建立した興亜観音がある。無事だったろうか。
興亜観音は支那事変当時上海派遣軍司令官であった松井石根陸軍大将が、退役後の1940年(昭和15年)、日支両軍の戦没将兵を「怨親平等」に祀るため、私財を投じてこの地に建立した。
この観音菩薩は、松井大将の部下の戦死者23,104柱を祀ったもの。右が日本国民戦死者慰霊位牌、左が中華民国戦死者慰霊位牌。
松井大将はこの近くに庵を建てて住み、毎朝ここまで登り、手を合わせて観音経をあげていた。戦後東京裁判で松井大将が処刑された後、松井大将とともに処刑されたA級戦犯六名、合わせて七名の遺骨も埋葬されている。
その経緯は、
1948年(昭和23年)12月23日A級戦犯として処刑された松井石根、東条英機等七人は、横浜の久保山火葬場で荼毘に付された。遺骨の殆どは米軍が処理したが、弁護士の三文字正平と火葬場近くの興禅寺住職の市川伊雄によって、12月26日深夜密かに残骨を骨壺一杯分採取し、翌年5月3日、ここ興亜観音に持ち込んだ。このことは長く秘匿され、1959年(昭和34年)4月19日、吉田茂元首相筆による「七士之碑」が建てられ、この下に埋葬された。
なお愛知県幡豆郡(現西尾市)三ヶ根山にある「殉国七士墓」は、翌1960年(昭和35年)に興亜観音の七士の遺骨から香盒一ヶ分を分骨して埋葬したものである。
現在はA級戦犯の刑死者7柱に加え、BC級戦犯の刑死者901柱、収容中に病死・自決・事故死・死因不明等で亡くなったABC級戦犯160柱を合わせた1,068柱の供養碑、大東亜戦争戦没戦士菩提(昭和19年)も建立されて全戦没者を祀り、「小さな靖国神社」とも喩えられている。
昭和46年12月、赤軍派によって興亜観音が爆破される事件があった。この時「七士の碑」は三つに割れてしまったが、導火線が途中で切れ、興亜観音は無事だった。「七士の碑」はその後修復されたが、割れ目が残っている。