現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

会津の「御式内」伝承者

2021-07-06 17:07:27 | 会津藩のこと

会津藩には、藩主はじめ重臣、小姓たちが修める「御式内」という護身術があったそうな。正式な記録にはありません。手の内を知られないように、極秘に伝えられたとか。

筆頭家老の「西郷家」がその伝承者であり、その養子となった「西郷四郎」に「御式内」を継承させようとしていたのではないかという説も。

しかし「四郎」は、嘉納治五郎の「柔術」から「柔道」に目覚め、「講道館の四天王」と呼ばれるまでになり、合気術とは一線を画しました。

西郷四郎という後継者を失った会津「御式内」は、西郷頼母から、会津のお抱え力士の家に生まれた「武田惣角」に「大東流柔術」として伝えられたとか。

この「武田惣角」の弟子が「植芝盛平」であり、植芝の弟子が「富木謙治」。今日、合気道と名乗る各流派は、この三名のいずれかを始祖と仰いでいるのです。


 

すなわち、会津のお家芸「御式内」こそは、今日の合気道の源流であるそうな。

「植芝盛平」の映像はYou-Tubeでも見られます。1935年の白黒フィルム映像ですが、5尺の小柄な老人が、次々と襲い掛かる壮年をバッタバッタなぎ倒す。すごい技です。

「植芝盛平」は、和歌山県田辺市の生れ。1915年(大正4年)31歳の時、所用で訪れた遠軽の旅館で、大東流の「武田惣角」に出会い、その技に衝撃を受け、その場で入門、宿泊を一月延長し、指導を受けた。

「武田惣角」は当時すでに54歳・身長150cmに満たない小柄な体ながら、豪腕の「植芝」を多彩な極め技で捻じ伏せたという。

「植芝盛平」は、翌 1916年(大正5年)33歳。田辺市白滝に道場を設けて、武田惣角を招き、村の有志十数人と共に 熱心に学び、「秘伝奥儀」の免許を授かったとされます。

そう、実は「西郷頼母」も5尺(150cm)に満たない小柄でした。『八重の桜』では西田敏行が演じてくれました。恰幅良すぎ。


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1 コメント

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会津藩御式内 (池月映)
2011-09-05 20:52:18
 武田惣角の地元を調査して足掛け10年になります。大東流の史実、会津藩御式内、西郷頼母、西郷四郎、武田惣角、祖父惣右衛門など、調査しておりますが、何の証拠も確認されておりません。生家の身分は藩士、郷士、神職、陰陽師ではないことは確かです。
 会津は戊辰戦争があって歴史研究はとても盛んなのですが、武田惣角は奇人変人として研究対象にすらなっておりませんでした。有名な歴史人物事典に掲載されても、会津大事典にはない。珍談奇談の「妙な小男」だけでした。
 普通は子孫の代になれば、真実が語られるのですが、美化されてしまって、いまさら真実がいえなくなったのかもしれません。
 武田惣角は、地元では大東流すら名乗れなかった。もちろん教えてもいない。
 世の中と地元の評価がこれほど違う人物も珍しい。真実を語って、武田惣角を偉人として認めさせたいと思っています。
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