現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「お富-於大-多劫」 母娘三代

2021-02-11 11:24:57 | 会津藩のこと

【華陽院・お富・お満とも】

竹千代(後の徳川家康)が、今川への人質として 駿府にあった頃、陰日向(かげひなた)になって面倒をみてくれた人がいた。家康の母「於大」の生母「華陽院・お富。つまり家康の祖母。

この「華陽院・お富」の生涯も、戦国の倣いとはいえ波乱万丈。

はじめ、刈谷城主「水野忠政」に嫁いで「水野忠重」や「於大」ら3男1女を生む。ところが、「松平清康」(家康の祖父)が横恋慕して、奪い取る。講和の条件として譲り受けたとも。

その「清康」が24歳で家臣に殺されると、その後は、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐といった諸豪族に次々に嫁ぐが、いずれも夫に先立たれている。その後、駿河の「今川義元」を頼って駿府に入り、尼となって、孫の「竹千代」の世話をする。


【於大の方】

 「松平広忠」との間の子が「徳川家康」
 「久松俊勝」との間に三男三女
   1松平康元
   2松平康俊
   3松平定勝
   4【多劫姫】「松平忠正」に嫁ぎ、後に弟の「松平忠吉」「保科正直」に再々嫁
   5 松姫  「松平康長」夫人
   6 天桂院 「松平家清」夫人


多劫姫

1553年の生まれ。初め「松平忠正」に嫁ぎ、「家広」を産んだ。
天正5年(1577年)に夫が死去したため、その弟「忠吉」に再嫁した。
この時、24歳。「忠吉」との間に2子(松平信吉、松平忠頼)を産む

その「忠吉」も天正10年(1582年)に死去し、天正12年(1584年)
保科正直に再々嫁する。この年31歳。そして2男4女を産む。

 
「松平忠正」との間に「松平家広」
「松平忠吉」との間に「松平信吉・松平忠頼」
「保科正直」との間に 2男4女

 1 保科正貞
 2 北条氏重
 3 大涼院(黒田長政継室)
 4 清元院(安部信盛室)
 5 貞松院(小出吉英室)
 6 高運院(加藤明成室)の

元和年(1618年)65歳で亡くなった。



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