元和5年(1619)、徳川頼宣が紀州55万石の太守に任じられ、
浜松の水野重仲は、御附家老として紀州新宮に3万5千石を拝領。
「平石彦右衛門」とその子「平石勘右衛門」が新宮に移籍するる。
その「平石勘右衛門」が新宮移籍に際して「牧原」と改姓する。
その8年後の1627年、「勘右衛門」の三男として「市郎兵衛」が
生まれる。この「市郎兵衛」が、16歳の時、1643年、会津藩祖
保科正之に仕え、御使番となっている。
1 平石彦右衛門 ・・1609年 浜松城主「松平忠頼」から「水野重仲」へ
2 平石勘右衛門・・1619年 浜松から新宮に移籍して「牧原」と改姓
3 牧原市郎兵衛・・1627年 勘右衛門の三男として紀州で生まれ、
1643年 17歳の時 会津藩へ、御使番として登用される
『家世実紀』巻之22「寛文2年(1662)」の項
1662年11月18日 新院様(後「西院様」?)御移徒につき
組付・牧原一郎兵衛(市郎兵衛か?)御使者にて御献上物これあり
牧原一郎兵衛に銀子十枚下さる
『家世実紀』巻之29「寛文7年(1667)」の項
1667年4月8日 大猷院様(徳川三代将軍家光)17回忌法事に
御使番・牧原市郎兵衛を お役の方がたにお見舞いとして遣わす
『家世実紀』巻之37「寛文11年(1671)」の項
1671年4月3日 大猷院様(徳川三代将軍家光)21回忌法事に
御使番・牧原市郎兵衛を遣わし、数々の進物を届ける
『家世実紀』巻之38「寛文11年(1671)」の項
1671年11月26日 2代藩主「正経」公、田中三郎兵衛宅へ御光駕(訪問)の際
御使番・牧原市郎兵衛が 銀三拾枚と時服二着を届ける
1673年6月5日 御老中板倉内膳正様死去につき、公方様へのご機嫌伺いとして
御使番牧原市郎兵衛を江戸へ遣わす4
『家世実紀』巻之86「元禄15年(1702)」の項
1702年3月21日 御使番牧原市郎兵衛の妻 十五郎様(?)御誕生の節 御乳付仰せられ、
倅「虎之進」年来不至(年齢がお目見得の年に至っていなかったが)御目見仰せつけられる
元禄10年(1697)十五郎様御誕生の節、牧原市郎兵衛の妻 御乳付仰せられ、(十五郎様は)
次第に御丈夫に成長されたことによって、御褒美として 倅虎之進 5歳の暮れ、お城の奥において
上下(裃)を下され、当年9歳になったので、格別に 御目見え仰せつけられる。
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「牧原市郎兵衛」が会津藩に召抱えられた1643年は、家光の弟保科正之が
出羽山形から会津23万石の太守となった年で、この時、藩士の大量採用があった。
一方、紀州藩では、家臣のリストラを断行しようとしていた。双方の事情が
合致して移籍したもようである。
市郎兵衛の父親の「牧原勘右衛門」は新宮に留まっていたようで、
1647年の「新宮藩物成帳(家臣録)」に「150石、妻は井出三左衛門(300石)の女」とある。
また1659年の「物成帳」にも「牧原仁左衛門(150石)」とあり。
会津へ移ったのは三男の「市郎兵衛」だけで、「仁左衛門」は
新宮で家督を継いだ長男か次男か。
しかしその後断絶したか、新宮に「牧原姓」はいない。
ただし、電話帳を見ると、現在 「平石」姓が9軒もある。「牧原」と改姓
した「勘右衛門」は三男だったから、平石姓の者たちは、その兄弟の子孫か。