「虚無僧」で検索していたら、こんな話を見つけた。
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九州柳川10万石の大名だった立花宗茂。九州で最も強い武将ともいわれた。しかし、関ヶ原では「豊臣への恩顧」から西軍に付き、敗れて浪々の身となり、江戸に隠れ住んでいた。その時十時(ととき)摂津(連貞)や由布惟信他数名の家臣たちが なんと虚無僧となって江戸市中を門付けし、主人の食を支えたという。
その十時連貞がある時 虚無僧で門付けしていると、無頼の輩三人にからまれた。十時は 係りを避けて逃げるが、彼らは執拗に追ってくる。十時を取り囲むと刀を抜いた。すると十時は、相手の刀を奪うと、あっというまに三人を切り伏せてしまった。
そこへ、騒ぎを聞きつけた捕吏が駆けつけ、虚無僧十時は召し捕らえられた。
取調べで、「拙者は 立花宗茂が臣十時連貞。騒ぎを起こしてはまずいと一度は逃げ、穏便に済まそう思ったが、相手が分を弁(わきま)えず 刀を抜いてきたので、致し方なく応戦した次第」と事の顛末を臆することなく弁明した。
関ヶ原で徳川に弓を引いた西軍の勇将立花宗茂と聞いては穏やかでない。「さては江戸に潜伏して徳川に仇なすか」と、捕吏は上役に報告。本多正信、土井利勝の耳にまで達した。
本多正信は、立花宗茂に接見して、宗茂の高潔にして温厚で誠実な人柄、浪人となっても家臣に尽くされる姿に感銘し、徳川秀忠に推挙し、初め御書院番に取り立てられた後、奥州「棚倉藩」 1万石に封ぜられた。さらに、元和6年(1620年)、旧領の九州筑後「柳川藩」10万9,200石に復帰した。
関ヶ原の役で改易となり、再度元の所領に復帰したのは立花宗茂ただ一人である。
立花宗茂も「一節切」の名手だった。