現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

⑭ 豊津高校と郡長正

2009-08-19 10:43:34 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
豊津高校の前身は、小笠原藩の藩校「育徳館」。ここに明治3年、
旧会津藩士の子弟7人が留学していた。最年少が、会津藩家老
萱野(かやの)長修の一子、郡(こおり)長正。

父萱野長修は会津戦争の責任を負って、明治2年5月18日、切腹
死罪となった。太平洋戦争のA級戦犯処刑と同じである。萱野家は
お家断絶となり、家族は姓を「郡(こおり)」と改めた。そして郡長正は、
会津の復興を託して、故郷はるか遠い、豊津の小笠原家に留学させられ
たのである。

小笠原藩は、萱野家はじめ会津藩の主だった者 300名を囚人として
東京までの護送に当たった藩である。その中に当家の「牧原寅三郎」も、
白虎隊の長として含まれていた。

さて、将来に希望ある少年たちだったが、翌明治4年5月事件が
起きた。寮内で郡長正が自決したのである。「母の手紙に食事の
粗末さを愚痴ったことから、小笠原の子弟に『会津の死に損ない』と
からかわれたため」と言われている。

明治、大正、昭和と、郡長正の話は「武士道の鏡」と喧伝され、会津と
豊津は友好関係を築いてきた。豊津高校は藩校以来の「育徳館」の
名前も併記して用いており、校庭には「郡長正記念庭」も設けられ、
会津から植樹や鶴ヶ城の石を贈呈したりしてきた。

私としても、一度は訪れたい土地であったから、8/15夜、中津を出、
小倉の手前の行橋で降りた。ここで「平成筑豊線」に乗り換えるの
だが、最終はもう出た後。朝まで待てず、夜を徹して歩いて豊津を
目指した。地図も無く、勘だけが頼り。筑豊線沿いに行けばよいかと
思ったが平行する道が無い。山道に差し掛かれば、真っ暗で足元も
見えない。あちこち遠回りして、ようやく「豊津」駅を過ぎ、次の
「新豊津」にたどりついた。田んぼの中にプラットホームが片側だけ、
屋根も無い、改札口も無い無人駅だ。

そこで「郡長正の墓 1.2km⇒」という小さな標識を見つけた。
郡長正の墓は会津にもあるが、当然この地に埋葬されたはずとは
思っていたが、豊津の「郡長正の墓」については文献で見た記憶が
無かった。「また呼ばれたのだ!」と興奮である。そこは、豊津高校
から反対、また今来た道を1.2km戻ることになる。逸る足で戻り、
山を上って墓地に着いた。この中らしいが、とにかく真っ暗で何も
見えない。夜が明けるまで待つことに。

ようやく夜があけて、墓地の中央に「郡長正の墓」を見つけた。
誰が手向けてくれたのか、花とお供えの果物があった。地元の人に
よって守られているのかと感謝の涙。涙枯れるまで、しばらく
墓石をさすっていた。

ようやく朝7時。街道を歩いて豊津高校を目指す。途中、すれ違った車が
急停車し、窓が開いて、男性が「虚無僧さん?」と驚きの声を挙げる。
車を空き地に止めて降りてきてくれた。「珍しいね。映画でしか見たこと
ないよ」と。そこで一曲。すると財布から 1,000円札を取り出して喜捨
していただいた。「きっと、郡長正も喜んでくれての、お力」と、ありがたく
頂戴する。

するとまもなく、校舎らしき建物が見え、駆け寄れば「育徳館・豊津高校・
豊津中学」の看板。今日は日曜なので入れないだろうとあきらめていたが
門が開いている。部活動の学生が早々と登校していたのだ。
「郡長正の記念庭を拝見させていただきたい」と申し出ると、虚無僧の私を
見て驚いたか、皆黙っている。「郡長正って知りませんか?」に「知らない」
との返事。「職員室へ行かせてもらいます」と告げて、校庭に入らせて
もらった。職員室は閉まっていてどなたもおられなかった。朝8時だ。

校舎は建て替えられたらしく新しい。校庭の片隅にちっょとした木立が
あった。「郡長正の記念庭」はきっとあそこだろう。近寄ってみた。
会津から記念植樹の碑や石碑があるが、「郡長正」の文字はどこにも
無かった。見つけられなかったのか。

「さもありなん」と予想はしていた。今の世の中「いじめられて自殺した」
のだから、豊津高校としては、賛美するわけにはいかない。自決を
「武士道の誉」とするのは、もう時代錯誤だ。今でも郡長正を褒め称えて
くれているとの思い込みは、会津人だけの幻影だったか。

豊津高校だけ見て帰っていたら、失望のままだったが。郡長正の墓を偶然
発見できたことが、何より今回の旅の収穫だった。

「豊津駅」に戻ると、ホームに年配の男性が一人。「次の電車が来るまで
まだ30分ある」と教えてくれた。30分以上も前から来ているのだ。
「郡長正の関係で豊津高校を訪ねて来た」と話すと、その方は、長正の墓の
ことなどいろいろ教えてくれた。そして「今はもう、学生にも郡長正の話は
教えていないね。35歳になる自分の娘も、豊津高校を出て教員しているが、
知らないっていうもんね」と淋しげに語ってくれた。





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1 コメント

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豊津校出身 (五十九才)
2019-01-14 02:32:46
私が豊津高校に、入学した時に、郡長政様の話を先生から聞きました。十五才で、自決。
この年に成ってわかる事です。ほんの数十年前なら。今も、その語り継がれていればと思います。
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