仙石騒動は但馬国出石藩に起きたお家騒動。藩は「出石(いずし)」。
藩主は「仙石政美」。対立する家老が「仙石左京」と「仙石造酒(みき)」
先代藩主「仙石久道」。左京の子「仙石小太郎」。皆同族なので「仙石」
ばかりでややこしい。
文政七年(1824年)藩主「政美」が、28歳で病死し、後継がおらず
跡目争いとなる。ご隠居の先代藩主「久道」の裁定で「政美」の弟「久利」が
7代藩主に収まるが、「左京」と「造酒」両家老の確執は続き、「造酒」は
「左京が子息小太郎を次期藩主にしようとたくらんでいる」という噂を流し、
左京の追い落としを図る。左京は子息「小太郎」の嫁に筆頭老中「松平康任」の
姪を迎える。それが仇となり、幕閣を巻き込んだ騒動に発展することに。
筆頭老中の松平康任を追い落としたい寺社奉行の脇坂安董(わきさかやすただ)と
老中の水野忠邦(みずのただくに)が、「左京が仙石家の乗っ取りを企てて、
老中松平康任に賄賂を贈った」と、将軍徳川家斉(とくがわいえなり)に報告。
これにより、松平康任は老中を辞任。仙石家筆頭家老の左京は獄門。
左京の息子の小太郎は八丈島への遠島となり病死。
出石藩は5万8千石から3万石に減封。
さてこの「仙石騒動」に虚無僧が登場してくる。
「造酒」派は「左京」の罪状を書いた密書を家臣の「神谷転(うたた)」に
託して、江戸にいる先代「久道」の婦人に届けさせる。「神谷」は脱藩して
虚無僧となって江戸に潜伏。それを阻止しようとして「左京」は
「虚無僧神谷転」の捕縛を 老中松平康任に依頼し、康任は南町奉行に命じて
神谷を捕縛する。これに虚無僧本山の一月寺が異議を唱える。「普化宗の寺は
家康公のお墨付きをいただいて守護不入の寺である」と。寺は寺社奉行の管轄で、
町奉行に捕縛権限はないというのだ。この件は、見方を変えれば、幕府としては
虚無僧寺を寺社奉行の管轄外、つまり寺とは見做していなかったことになる。
しかし、この虚無僧の捕縛という一件から、寺社奉行の脇坂安董が動き出し、
水野忠邦と組んで松平康任の追い落としにかかる。
この仙石騒動で一月寺が「家康公の慶長の掟書」を持ち出したことで、以降
幕府は「掟書」の真偽を詮議することとなった。やぶへびとなったのだ。