歌舞伎十八番の『助六』は、正徳3年 (1713)山村座で初演。
助六は、黒の着流し、高下駄、腰に尺八を差し、虚無僧をイメージさせているが、天蓋は被っていない。1700年代の初期はまだ天蓋は無かった。
正徳5年(1715年)、二代目市川團十郎が、中村座で『坂東一寿曾我(ばんどういちことぶきそが)』で、曾我五郎を演じた時、 "虚無僧"に扮した場面があり、これが大当たりしたという。
「編み笠」に「寿」の字がいれてあり、それは「越後屋」のマークで話題になったそうな。スポーツ選手がスポンサー企業のネームをつけて出場するようなものだ。「編み笠」となっているから、現行よりは浅い。
翌年(1716)、中村座の『式例寿曾我(しきれいことぶき)』では、
曾我の世界に助六がとりこまれ、助六=曾我五郎という設定が生まれた。
そして、その扮装は現行に近い天蓋、尺八、黒の着付といったものになっていたという。ひょっとして、「天蓋」は 歌舞伎の演出として創られたのではないかと
思える。そして これが 江戸中に「虚無僧姿」を決定づけたものとなったという。
ただし、現在の『助六』は「天蓋」を持たない。
はっきりと 虚無僧が登場するのは、『仮名手本忠臣蔵』。
人形浄瑠璃としての初演は寛延元年(1748年)。江戸では 翌 寛延2年(1749年)森田座で初演されている。「加古川本蔵」が「虚無僧」となって山科の閑居を訪れる。
この頃には「天蓋」は現在のようなものになっていて、上演の時は、虚無僧本寺の「一月寺・鈴法寺」に 金品を納めて“使用許可”を受けたという。
コメントがはいり、その出典について質問を受けました。
云われてみれば、歌舞伎役者が上演前に一月寺、鈴法寺を訪問して金を払ったという史料、文書は確認していません。
ただし、虚無僧はヤクザと同じですから、当然考えられます。
最初に上演した時、虚無僧寺に許可をとらなかったため、虚無僧連中が押しかけて、舞台に上がり、公演を妨害した。それでそれ以後、虚無僧寺に金を納めるようになったという話です。
1700年代になると偽虚無僧が横行し、庶民の迷惑甚だしい振る舞いが多くなったので、幕府としても、虚無僧寺に天蓋、尺八、袈裟の貸し出しを厳しくするようお達しはありました。ですから、歌舞伎で勝手に虚無僧を演じることはできなかったはずです。
「、、、上演の時は、虚無僧本寺の「一月寺・鈴法寺」に 金品を納めて“使用許可”を受けた」ですが、出典を教えていただけないでしょうか?