昭和24年(1949)7月5日、下山事件
日本国有鉄道(国鉄)で起こった「国鉄三大ミステリー事件」のひとつ。日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁に就任したばかりの下山定則が出勤途中に失踪し、翌日に常磐線綾瀬駅付近で轢(れき)死体となって発見された。
事件発生直後から自殺説・他殺説が入り乱れ、捜査に当たった警視庁でも捜査一下は自殺、捜査二課は他殺で見解が対立し、それぞれ独自に捜査が行われたが、公式の捜査結果を発表することなく捜査本部は解散となり、捜査は打ち切られた。下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、三事件を合わせて「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれる。
1964年7月6日に公訴時効が成立し、未解決事件となった。
事件の時代背景
下山事件が起こった1949年、中国共産党の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも北緯38度線で一触即発の緊張が続いていた。日本占領軍GHQは対日政策を「民主化」から「反共」に転換した。
そんな中、下山定則は運輸次官から、6月1日、発足したばかりの日本国有鉄道初代総裁になった。その日、GHQは全公務員の28万人、国鉄の10万人の人員整理(首切り)を発表した。これに対して、躍進著しい共産党系の「全日本産業別労働組合会議」や国鉄労働組合は激しく反対し、世情は騒然としていた。
そして、下山は就任からわずか1か月後の7月5日に失踪、深夜00:20貨物列車に轢かれた。
下山総裁は労組との交渉の矢面に立ち、相当悩んでいたというのが「自殺説」の根拠。
他殺説
・「国鉄マンが鉄道で自殺するはずがない」「実直な下山が、遺書も残さずに死ぬわけがない」
- 轢断面や近辺に出血の痕跡がないのは、轢かれる前にすでに殺されていたことを意味する。
- 前日7月4日の午前11時頃、鉄道弘済会本部に「今日か明日、吉田か下山か、そのどちらかを殺す」との予告電話があった。
- 下山が履いていた靴は、毎日下山家の書生が丁寧に磨いていた。書生の証言によれば、朝出勤時と靴紐の結び方、靴クリームが違っている。
- 下山の着衣にヌカ油と染料が付着していた。下山はそのような工場か資材置き場で暴行を受け殺された後、現場に運ばれ、線路に遺棄された可能性が高い。
- 下山は当日名古屋から帰郷する予定の長男に会うのが楽しみだと語っていた。
柴田哲孝の『下山事件ー最後の証言』
下山事件は196年未解決事件となったが、2014年「下山事件・最後の証言」柴田哲孝著が出された。
あの当時、国鉄は贈収賄の巣だった。
吸い上げた金が、亜細亜産業と三浦義一のグループに集まっていた。
ところが新たに国鉄総裁となった下山定則は、国鉄の技術者上がりの正義漢で、国鉄の労働組合と気脈を通じ、首切りを止めたかった。
そこで国鉄が贈収賄の巣になっていることを暴露して、政府と交渉し首切りを抑えようとした。それに反対する勢力によって殺された。
なんと首切りを反対する共産党系に殺されたのではなく、首切りを断行しようとする勢力に殺されたというのだから、犯人捜しが180度転換した。
柴田氏が下山事件追求に乗り出したのは、満州諜報機関の残党による「亜細亜産業」が下山事件に深く関わっている、との情報を入手したことに始まった。そのアジトには旧日本軍の諜報機関員、右翼関係者、政財界の大物連中、米軍関係者が集まっていた。
その亜細亜産業の総帥だった矢板玄氏から「他殺ですよ」との証言を得たとのこと。そして下山暗殺になんとあの白洲次郎がからんでいたとも。これは衝撃。
1949年7月2日、殺される2日前の夜、西銀座の「出井(いづゐ)」という料亭で、下山は白洲次郎と面談していた。
その翌日、フジテレビ社長の水野成夫氏に下山総裁は「俺は殺されるかもしれない」と語っていた。
下山事件の一ヶ月前、6月3日にGHQから国内電源開発への巨額資金投入が示されていた。この巨額資金で東北本線電化を行なえば国鉄に莫大な見返り利権が生じることになるわけだった。
ところが、下山総裁は東北本線総電化には反対で、国鉄内の合理化を第一と考えていた。
ま、柴田氏の話はノンフィクション作家であって、出典を明らかにしておらず、作り話と一蹴する論も。
しかし、三大ミステリーの他の「松川事件」「三鷹事件」とは関連 (共産党とGHQの対立)のない可能性は濃厚のようです。
下山定則
司法官の父に従い少年時代は転校を繰り返していた。転校するたびにその都市の主要駅の時刻表を暗記して人気者になっていたという。静岡中学、津中学、三高卒業。三高時代には稚内から鹿児島まで駅名を暗唱して友人から「鉄道」というあだ名をつけられた[1]。
1925年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業した後は鉄道省に入り、企画院技師、技術院第4部長、鉄道総局業務局長補佐(1945年1月-)。鉄道省でも運輸畑と技術畑を繋ぐ役割をしていた。
第二次世界大戦後の連合国による占領下では、名古屋鉄道局長(1945年9月-)、東京鉄道局長(1946年3月-)を歴任。その後、1948年4月に運輸次官に就任。