現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

4/17 伊勢神宮にて奉納演奏

2016-04-18 05:11:23 | 虚無僧日記

「日本吟道奉賛会」の招きで、4月17日、伊勢神宮内の能舞台で

詩吟の伴奏と、尺八で「鶴の舞」を吹奏させていただきました。

朝から雨が降り出し、風も強く吹く中での「御垣内参拝」。

熊本の大地震による被害のニュースを聞くと、大自然に

畏怖の念を感じざるをえない。

 

晴れ男の私。午後からは雨も止み、晴れ間も出て、能舞台で

吟詠・吟舞の奉納。こんな栄誉に浴するのも、尺八をやって

いたからこそ。

伊勢神宮の大宮司「高司尚武」氏は 慶応の同期。片や

大宮司。片や一介の虚無僧。雲泥の差か? いや比較できる

ものでもなしか。

 


「普化宗」なんて無かった

2016-04-14 14:48:23 | 虚無僧って?

「海童道」が「普化宗管長」を称していたというが、
「普化宗」というのは、かつて存在していなかった。
そのような寺も無い。だから「詐称」である。
「海童道」は「普化宗管長」ということで、政財界からも
一目おかれ、丁重な扱いを受けていたようである。
名古屋や大阪に出張した折は、それぞれの警察署長が
公用車で駅まで出迎えている。なぜそこまでVIP扱い
されるようになったのかも謎である。稀代の「詐欺師」で
ある。それだけに愛されているから不思議。

・中国には普化宗は存在しなかった。
・普化宗を日本に伝えたという法灯国師覚心は普化を知らなかった。
・江戸時代でも、虚無僧寺本寺の一月寺、鈴法寺は普化宗と名乗らなかった。
・京都明暗寺が、江戸の一月寺・鈴法寺と対抗するために「法燈国師
 覚心」を担ぎだして「普化禅師」と結びつけ「普化宗」なるものを
 創作したと考えられる。
・江戸幕府は当初、虚無僧を浪人対策として黙認していたが、横暴ぷりが
 目にあまるようになると、取締まりを強化するようになった。
・明治政府は、法令で普化宗を廃止し、尺八を吹いて門付けすることを
 禁じた。虚無僧最後の人といわれる谷狂竹は3回も逮捕されている。
・京都東福寺の塔頭善慧院内に寄宿するカタチで『宗教法人 普化正宗
 明暗寺』として登記されたのは、戦後の昭和25年であった。


というわけで、普化宗が正式に国家、また宗教界に公認されたのは、
戦後のことなのである。
現在、東福寺の善慧院の門に、『明暗寺』の看板は掲げてあるが、
そこに普化宗の住職や虚無僧が常駐しているわけではない。
東福寺も善慧院も臨済宗の寺であり、ご住職も臨済宗の僧侶である。
ご住職のご理解と好意で、全国200名ほどの虚無僧尺八愛好家の
ために、『明暗教会会員証』と『行化証』を発行していただいている。

私としては不本意であるが、虚無僧で周っていると「許可証あるか」
と聞いてくる人もあるので、カタチに頼る人のために携帯している。

カタチを求めるのであば、一応『宗教法人普化正宗明暗寺』発行の
認可証を得ているのであるから、私は「天下御免の虚無僧」である。


暮露と馬聖は同じ?

2016-04-12 08:59:31 | 虚無僧って?

明応(1492~1501)頃成立の『七十一番職人歌合せ』には、
「暮露(ぼろ)と馬聖(むまひじり)は同じ」というような記述がある。

「馬聖」とは何ぞや? 「馬の病を治す祈祷師」などという説もあるが、
一向に判らなかった。

手がかりは「馬衣(うまぎぬ)」を着ている聖(ひじり)。

鎌倉時代(13世紀末頃)流布した『天狗草紙』(三井寺巻第三段)
  
 「一向宗と云ひて、弥陀如来の外の仏に帰依する人をにくみ、
 (中略)一向阿弥陀一仏に限りて、余行・余宗をきらふ事、
  愚痴の至極、偏執の深くなるが故に、袈裟をば出家の法衣なり
  とて、これを着せずして、(中略)或は馬衣をきて、衣の裳を
  つけず、念仏する時は頭をふり肩をゆすりておどる事、野馬の
  ごとし(以下略) 」


「一向宗」というと「一向一揆」。それで、蓮如の浄土真宗と思われて
いるが、蓮如自身「浄土真宗と一向宗は別」と云っている。

「南無阿弥陀仏」と唱えるのは同じだが、「一向宗」は一向俊聖に
始まる時衆(宗)の一派で踊りを伴う。時宗と云えば一遍上人だが、
この一遍とも違う一派があった。後に藤沢の遊行寺に統一され、
時宗=時衆=遊行宗となる。

滋賀県米原市番場の蓮華寺が本山。その開山の「一向俊聖」は
他宗の出家が付ける袈裟は着ず、「馬衣」を着たという。

これで判った。いや「馬衣(うまぎぬ)」というのがいまいち不明だが、
一向俊聖の踊り念仏から、「ささら、鉢叩き、放下僧」、さらに田楽
という芸能集団が生まれてくる。この芸能をもって旅する念仏宗の
面々が、「馬衣の馬聖=俊聖」の仲間と見られていたのだ。

「馬聖」は、踊り念仏を唱える者たちに共通する一般名詞となった。
だから、ささら者、放下僧、田楽、と「ぼろ」は同一視されていた。

『徒然草』や『ぼろぼろの草紙』に登場する「暮露(ぼろ)」は河原で
九品仏念仏踊りをやっていた。

「暮露」と「薦(こも)」は同族と見られていたが、最近、宗教的には
別という意見が有力になってきた。





暮露と薦は別

2016-04-12 08:58:35 | 虚無僧って?

江戸時代初期には、「暮露(ぼろ)と薦(こも)は同じ」という
説が定着していたが、両者は、もともとは別ものだったようだ。

「暮露」については、鎌倉時代の末に書かれた『徒然草』に
「ぼろぼろ」として登場してくる。この「ぼろ」は尺八を
吹かない。河原で九品念仏を唱える集団だ。

そして1500年頃、土佐光信によって書かれた『七十一番職人
歌合』には「暮露が馬聖と同じ」として書かれ、尺八は持って
いない。一方ほぼ同時期、同じく土佐光信が書いたとされる
『三十二番職人歌合』には「薦僧」が「尺八吹く他には別の
業なき者」と書かれている。
つまり「暮露」と「薦僧」が別職種として描かれているのだ。

では「暮露(ぼろ)」とは何ぞ。『徒然草』には「ぼろんじ、
梵字、漢字などと言ひけるものその初め」とある。

「梵字」がヒントとなって、「真言密教の“一字金輪の呪”
のうまくさんまんだぼたなんぼろん」を唱える集団では
なかったか」という説が浮上してきた。

「ぼたなんぼろん、ぼたなんぼろん」と108回、繰り返す
のみなので、「ぼろん字」と呼ばれたのではないだろうかという。


名古屋城内で虚無僧

2016-04-03 23:08:39 | 虚無僧日記

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名古屋市の「ポップ・アップ・アーティスト」に登録された私「虚無僧一路」。

晴れて、名古屋城内でのパフォーマンスが許可され、堂々と城内で 尺八を

吹いてござる。

先週までは、海外からの観光客が8割ほど。みなさん虚無僧に興味を示して

写真を撮ってくださる。その数は、2時間で200名ほど。「名古屋観光

広め隊」のお役を務めさせていただいておりまする。

ところが、昨日4月3日は、桜も満開。いつもの10倍の人出。その大半が

日本人だから、比率からいって、外国人は1割ほど。日本人は、

桜にばかり目が行き、虚無僧の私に注目する人は少ない。

「虚無僧」を知る人も少なく、みな「何?」と 怪訝な顔。

それでも 一万人の 1%、 100人の方が私に近寄ってきて、

写真を撮ってくださった。子供たちに「虚無僧」を知ってもらう

良き機会でござった。


「海童道」本人の記述から

2016-04-01 03:07:20 | 虚無僧日記

「尺八吹奏研究会」の「インターネット会報 2002年7月号に
「貴志清一氏」が、「海童道」本人の書いた文というのが
紹介されていましたので、掲載させていただきます。

書かれたのは、昭和46年(1971)。

【自然法、道具で実践】

 よく海童道(わだつみどう)のことを尺八の一流派と
間違えられる。この間も日本フォノグラム・レコードから
「即音乱調(そくおんらんちょう)」のLPを発売したのだが、
どうも尺八と同一に扱う人が多く、実際のことをご存じないらしい。

尺八はあくまで決められた譜面通りに演奏するだけのものであり、
西洋楽器と共通した分野で、その中に各流派が存在する。

しかし、海童道は有形、無形の二つの道に分けることができる。
なかでも無形が基本である。たとえば食事をするとき、まず
目で見ていく、目が先にものを食べている-。無形はそうした
基本を表すものであり、身体に対する生命力とか 行い、作用をさす。

その作用の使い方から全体作用へと及んでいく。その具体的な
人間の生命力を形に表すとなると、吐く(呼吸)、つかむ(指の動作)、
のばす(身体の屈伸)に要約される。

また吐くにしても、吸う息よりも出る息の長い方が健康だと言われる。
それを端的に示したのが“吐く”に当たる。さらに人間は手足を動かして
活動するが五本の指のうち三本しか使っていないことが多い。

足の指などは 使わないことが多い顕著な例だろう。人間というものは、
手足から衰えて、老化現象が起こる。そのため私は“つかむ”ということに
力点を入れている。さらに全身四つん這いになり、“伸ばす”という
自然の原理を取り入れている。全体の屈伸運動に当たるからだ。


こうした三つの哲理を“自然法”という形で編み出したが、私は
さらにこれを道具を使って実行する方向へ持っていった。それを
「道法」と名付けたが、要するに竹の自然の姿をそのまま生かし、
適当に穴をあけて、先に述べた自然法を実行する。

自然の竹だから尺八のように一尺八寸といった決まりはないし、
中の節も細工せずに穴をあけただけである。だからあるときは
1メートルをこす長い法竹もあるし、30センチそこそこの
短いものもある。しかもどんな竹でもいいという、竹を選ばない
点が特色だろう。
 
【吹くたびに変わる】
 こうした自然のままの竹を使って 腕を伸ばし、息を吐いて
指を動かす。そのさまはちょうど藪の折れ竹が風を通して
自ら音を発するという状態を想像してもらえばいい。

ただ、楽器の場合はすべてが合理化されていて、一定の量の
息を吹き込み、コントロールするだけで“音楽”となるが、
海童道の場合は自然の竹をそのまま使うのだから、孔の大小もあり、
一本の法竹を十分に使いこなすまでに十年もかかることがある。

だから海童道を音楽と見るかどうかよりも、きびしい道行の中で
実践の道具として法竹を使い、そこから発する音色が音楽的だ
というなら、それは音楽と呼べるかもしれない。

私がこうした自然法にもとづく海童道を打ち出したのも、
幼児から非常に身体が弱く、夏でも首巻きをしていた ひ弱な
体質を改善しようと思い立ったからだ。

そのため真言宗に学ぼうと山にはいって「般若心経」を一万巻
読み続けたこともあるし、救世軍の奉仕作業にも 進んで道を
求めたことがある。

そして真言宗から禅の世界へ進み、竹の世界を通して自分の世界を
作りあげた。当時はちょうど第二次大戦の“新体制時代”、
その時代風潮と、みそぎを主体とした宗教としての海童道とが、
精神的に共通するということで、そのころ私がいた福岡では
“伝統博多の魂”だとまでいわれ、周囲から進められて
海童道を名乗るようになった。

しかし、私としては宗教は信ずることが基本になるが、
私の場合あくまで理を基本にして進めているので、宗教と異なる
と思っている。

また名前の話が出たついでにいうと「宗祖」の方は「安井元
東京都知事」や「市川猿翁」、「安藤鶴夫」といった人たちから
送られたものである。
統一から分裂といった精神上の激しい音を鮮やかに表現し尽くして
いるとして、つけられたものである。

さて、「法竹」を自然法にもとづいて「吹定(すいじょう)」することは
「哲学を身体で覚える」ということになると私は考えている。

自分が力強い人間になっていきたいために苦しみの中を生き抜いていく
という私自身の体験から出たものである。

「海童道で法竹を吹定するための教本(海童道では道曲と呼ぶ)が
あるのだろうか」と聞く人があるが、いちおう譜はあるといっておこう。

しかしその譜の通り吹いてもある時は3分の時間ですみ、またあるときは
10分以上にもなる。というのも業(わざ)と力が反比例しているからである。

力が入るものは業がない。気合いを入れて吹いていくと また違った感じになる。
それだけに一つの曲を何度吹いても別の曲に聞こえたりするわけだ。

譜にあるものと生命の流れは全然別だということであり、海童道では
絶対に他人と合わすことはできないので、他の楽器のように合奏することは
あり得ない。

だからレコードなどに すでに数回録音しているが、気合いの乗ったときでも
納得のいく曲は一曲か二曲しかない。

私の曲に「鹿の遠音」というのがある。めったにとらない門弟数人でさえも
誰もきいたことがない曲である。それがこの間のレコーディングで
完全な形で実現した。心と身が一つになって気分が完全に統一できたから
実現したと言っていい。だからいま吹いてみてくれといわれても、今は
吹けない。

そういった難曲がレコードという媒体を通じてできたことに、ある種の
記録的価値を認めなければなるまい。しかしナマの音との差が歴然と
しすぎるし、哲学的な発生をレコードからは理解できるものではない。

外務省が“日本伝統の音楽”という海外PR向けの映画に海童道を
紹介したいといってきたときも、尺八の一流派としてでなく、哲学の一派
としての私の立場を認めてくれていたので、私の撮影を了承したことがある。
 
【フォークの元祖驚く】

とにかく「海童道の実践という形で誕生した音を、小細工をろうした
音楽と同一に呼称するには、その内容が大きすぎる」と、
コネチカット州ウエスレヤン大学にいる「小泉文夫」氏が 述べて
くれているが、彼はまた、「人々の生活や祭りや儀式や修行の過程や結果と、
つねに一致したものが、真の意味の音楽と呼んでいいのではあるまいか」
ともいう。

海童道をある人は「前衛音楽」といい、ある人は「前衛哲学」とも言った。
吹くことだけでなく、場合によっては振り回しても、自分の体を
たたくことでもいいと私は思っている。

現代フォークソングの元祖ピート・シガーが訪れたときも、私は即座に
物干し竿で作った法竹を無造作に口に当てて厳しく激しい音を出した。
ピート・シガーはびっくりし、さっそくその模様を映画に収め、帰国後、
「日本に行って なによりも感動したのは海童道だ」と言ったそうだ。

私はそのことを小泉氏からきいた。こうした外国の音楽家たちも
一定の枠を越えた人間の生命力のたくましさに驚いたに違いない。

(海童道開祖)