現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

蘆庵と一休

2018-03-21 21:26:07 | 一休と虚無僧

今から600年昔の室町時代、明国に滅ぼされた南宋から
多くの難民が日本に渡来してきた。その中に洞簫尺八を
吹く魯安(ロアン)という人がいた。日本に来ても言葉が
通じない。職はない。路傍に薦(こも)を敷いて座わり、
物乞いをしていると、一休が通りかかって、その風貌に
足を止めた。

一休が、路傍の薦(こも=乞食)に話しかける。
「ただ座って物を乞うだけではいかんぜよ。何かひとつでも
とりえはないか?」と問うと、その薦は、なにやら話し、
短い竹の笛(一節切り尺八)を取り出して吹いた。

「おぉそれそれ、それよ。おまえの言葉は通じないが、その
尺八の音は、人の心に響く。人々の心の中にある仏性を
呼び覚まし、鬼神をも泣かす力がある。それさえあれば、
全国どこへ行っても生きていけるだろう」と。

こうして薦(こも)の上に座って物乞いするだけの薦が、
尺八を吹いて薦僧(こもそう)となり、後に虚無僧と
呼ばれるようになった。

その薦は、宇治川辺に草庵を建てて移り住み、庵の名を
吸江庵、(きゅうこうあん)。中国名が魯安(ろあん)、
日本名を朗庵一路と名乗り、一休の尺八の友となった。

私はその吸江庵一路の生まれ変わりなのじゃ。ハックション。
この話はハックション、じゃないフィクションです。




嘘も方便

2018-03-21 21:25:48 | 一休と虚無僧

「一休とんち話」の中の「水飴の話」や「屏風の虎」は、
大人の嘘を見破る一休さんに、“してやったり”と拍手する
庶民の“心いき”なのだ。

「お釈迦様は絶対嘘をつかなかった」
お釈迦様は、「地獄・極楽など見てきたわけではないので、
あるか無いか、私は知らない。あるかもしれない、無いの
かもしれない。それは心の内。そんなことにあれこれと心
惑わすより、今をより良く生きればいいではないか」と
説いた・・・・・はずだ。私も聞いたわけではない。原始仏教
ではそう云っている。

ところが釈迦滅後 500年から1000年も経て、様々な人が
「如是我聞(ニョゼガモン)=私は是のように聞いた」と、
いろいろ言い出した。それが何万巻もの経典となった。
様々な宗派が生まれた。お釈迦様は1文字も書き残して
いないのにである。

「法華経」こそお釈迦様の説かれた真実の教えと信ずる
宗派は、「他のお経は、嘘、間違いだった」とは云えない
ので、「お釈迦様は“嘘も方便”として説かれたのだ」と
苦しい言い訳をいう。

“嘘も方便”とは便利な用語だ。そんな嘘を庶民は、一休
に名を借りてコケにしているのだ。


虚無僧は「南朝」方?

2018-03-19 20:08:17 | 一休と虚無僧

『虚鐸伝記国字解』によると「虚無僧の祖は楠木正成の子
正勝」だという。正史では「楠木正勝」の実在すら不明の
人物である。

また、普化宗を中国から日本に伝えたのは、由良の興国寺の
開山「法燈国師覚心」としている。法燈国師の正史には
「普化宗」との関係を示すものは皆無なのだが、なぜ
「法燈国師」を普化宗の日本開祖に担ぎ出したのかが
謎なのである。

その答えは、由良の興国寺が南朝寄りだったからではないかと
私は推察している。「興国寺」は鎌倉時代に「法燈国師」に
よって開かれた時は、高野山真言密教系の寺で「西方寺」
だった。

それが「法燈」の弟子「孤峰覚明」(1271~1361)の時、
後醍醐帝、後村上帝の帰依を受けて、「興国寺」と改名される。
「興国」とは、後村上天皇の1340年から1346年までの南朝の
年号である。

つまり、「西方寺」が「興国寺」となったのは、二代目住職の
「孤峰覚明」の時、1271~1346年の間のことであった。禅宗に
宗旨替えしたのもこの時であろうか。

由良の興国寺が南朝方であったことから、一休も「法燈国師」
には関心をもっており、詩にも詠んでいる。

私の推測だが、虚無僧たちは、一休の詩から「由良の開山、
法燈国師覚心」を知り、興国寺が南朝方であったことから
「楠正勝」の名を担ぎだしてきたのではないだろうか。

そもそも、『虚鐸伝記国字解』は、江戸時代の後半、
出自の怪しげな虚無僧宗に対して、幕府の詮議が厳しくなり、
虚無僧の由緒を正しくするために、虚無僧の意を受けた者が
創作したものと私は考えている。


土佐の吸江寺

2018-03-16 20:03:11 | 一休と虚無僧

私は「吸江(きゅうこう)流尺八・一路」を名乗っています。

高知市吸江に“吸江寺”という寺があります。浦戸湾の東側、
五台山公園の所です。
鎌倉時代に、夢窓国師が土佐へ隠棲し、若手の指導育成の
ための学問所として建てたのが始まり。「吸江」とは、
禅の公案「吸尽す長江の水」に由来すると考えられます。

そして、宇治にも吸江庵がありました。土佐の吸江寺と関連は
あるのでしょうか。

江戸時代の文献では、宇治の吸江庵に住んだのは「一路」
なる居士で、「一休の尺八の友」だという。さらには
明暗寺の開祖「虚竹」も同一人物とする説まであります。

真偽のほどは不明ですが、吸江庵一路こそ、虚無僧の元祖
と私は思っています。その名を、今、私が勝手に名乗らせて
いただいているのです。

土佐の吸江寺は、虚無僧と直接関係はないようですが、
同名のよしみで行ってみました。でもご住職には会えず、                                         空しく帰りました。ご縁が無かったのです。





細川頼之と一休の寺「京都地蔵院」

2018-03-16 19:55:39 | 一休と虚無僧

一休が15、6歳の時、安国寺を飛び出して 入った寺が
「地蔵院」です。私はずっと「地蔵院」を探していたのですが、
「ディスカバー(発見)ジャパン」JRのポスターで
見つけたのであります。ネットで検索したらありました。 


「地蔵院」は、南北朝時代の貞治6年(1367)、室町管領の
細川頼之が夢窓国師を開山とし建立。その後、北朝系天皇
(崇光・後光厳・後円融)の御願寺に準ぜられて隆盛を
極めたが、応仁・文明の乱で焼失。細川頼之の像と墓がある
とのこと。

「細川頼之」は、なんと三河国(現愛知県岡崎市細川町)の
生まれ。その妻が三代将軍足利義満の乳母であり、頼之も
義満の後見人として重用されていました。

そして、楠木正儀に和睦を勧め、正儀を北朝方に引き入れて
摂津、河内の守護に任じたのです。

一休の母は、この楠木正儀の孫娘と思われ、一休が「地蔵院」に
移ったのも、細川頼之の縁と私は考えています。

「細川頼之」と言えば、詩吟をやる人は誰でも知っています。
いえ、彼のことは知らなくとも、彼の詩「海南行」は有名です。

「人生五十、功無きを愧ず
 花木春過ぎて 夏すでに中ばなり」


頼之は、幼少の義満の後見人として、南北朝合一に尽力したのですが、
義満が長ずるに及び 疎まれて都を追放され、本領の四国に隠遁する
のです。その時詠んだ詩が「海南行」です。

四国では義堂周信に帰依し、周信の吸江庵に出入りしていました。
その吸江庵が、後に宇治川の辺にもありました。
そしてその庵の主は、一休の尺八の友“一路”とも言われます。

私は、一路の庵の名、吸江庵から「吸江流尺八一路」を 勝手に
名乗らせていただいています。

昔は50歳で隠居、隠遁の身。私も68で「功無きを愧ず」。
陽暮れて道遠し。頼之はその後、許されて政界に復帰します。
私に再起はあるのでしょうか。



細川頼之 『海南行』

2018-03-14 21:47:10 | 一休と虚無僧

詩吟でよく詠ぜられる詩
「細川頼之(よりゆき)」の『海南行(かいなんこう)』。


「人生五十 功無きを愧(は)ず
 花木 春過ぎて 夏已に中ばなり
 滿室の蒼蠅(そうよう)掃(はら)えども去り難し
 起って禪榻(ぜんとう)を尋ねて清風に臥(が)せん」


「細川頼之」は 室町時代の初期の人です。足利
2代将軍「義詮」の後、1369年、義満が10歳で
将軍になると、その補佐役(管領)に任じられます。

そして「義満」が20歳になるまで、幕府の実権を
握っていましたが、1379年 斯波氏他 守護大名の
讒言に遇って罷免され、一時 領国の四国讃岐
(現 香川県)に隠遁します。

この時詠んだのが『海南行』の詩です。
「蒼蠅(そうよう)=「青パエ」とは、自分を陥れた
連中のことを差しています。

細川頼之は四国に隠棲して12年後の 1391年、
今度は斯波氏が失脚して、義満の命で幕政に
復帰します。しかし その翌年 1392年 病に倒れ、
3月に死去。享年64歳でした。

この年の10月に「南北朝合一」が成り、1394年の
1月1日に「一休」が生まれるのです。


細川頼之と一休

2018-03-14 21:46:35 | 一休と虚無僧

足利3代将軍「義満」の補佐役だった「細川頼之」の
おかげで、「一休」が生まれたと 私は考えています。

1369年、「細川頼之」が 将軍「義満」の補佐役
として実権を握った年に、「楠木正勝」の弟「正儀
(まさのり)」が北朝に降ります。将軍「義満」は
まだ10歳でしたから、「楠木正儀」を迎え入れたのは
「細川頼之」の一存だったことでしょう。

「正儀」は 和泉・河内の守護に任ぜられますが、
1379年、細川頼之の失脚によって、北朝には居ずらく
なり、再び南朝に戻り、その後の足取りは不明です。

それから12年後、細川頼之は 赦免されて 京都に戻り、
幕政に参画しますが、翌1392年に亡くなります。
そして この年の10月、南朝の「後亀山天皇」が 
北朝の「後小松天皇」に 「三種の神器」を渡して
「南北朝の合一」が成ります。


さて、その1年半後に「一休」が誕生します。
「一休の母は 後小松天皇の寵愛を受けていたが、
“南朝の臣の娘”であったため、宮中を追われて
田舎で一休(千菊丸)を産んだ」と言われています。

「南朝の臣の娘でありながら、後小松天皇の女御と
なった」。しかし「南朝方であるために追放された」と
いうのは不思議な話です。そこで該当するのが
「楠木正儀」です。「正儀」なら、北朝に降り、
河内・和泉の守護に任ぜられたのですから、その
孫娘あたりを宮中に入れることはできたはずです。

ところが、「南北朝合一」が成った後、南朝方の
楠木の残党が、「将軍義満」に騙されたと知って、
再度 大和で蜂起します。この事件によって、一休の
母も南朝方「楠木」の血を引きますので、天皇の
命を狙っていると讒言され追放されたと私は考えて
います。

昭和30年頃発見された『橘氏楠木家系図』に、
「楠木正儀の子正澄は現在の門真市に土着し、その
娘が入内して、後小松天皇の寵を受け、一休を産む」と
書かれていたのです。



一休が安国寺に入れられた訳

2018-03-13 20:14:52 | 一休と虚無僧

一休は、都を離れた村里で生まれたはずですが、
父は 北朝の「後小松天皇」であり、母は「南朝の
臣、楠木正儀の孫娘」とあっては幕府も放って
おけません。「義満」の命によって、一休は6歳
で母親から引き離され「安国寺」に入れられます。

天皇の子であり第一皇子ですから、皇位継承者であったのですが、                                 安国寺の入れられた理由はもうひとつ。足利義満はわが子「義嗣」を                                次の天皇にしようと企みます。事実、義嗣の立太子の儀式を行っています。                             足利義満にとっては一休が邪魔だったのです。

「安国寺」は、足利尊氏が、後醍醐天皇はじめ
楠木正成、新田義貞ら、自分が滅ぼした南朝の
人々の霊を鎮めるために全国、国ごとに建てた
安国寺の総本山でした。

つまり、一休が「安国寺」入れられたのは、一休に
曽祖父である楠木正成をはじめ楠木一門の菩提を
弔わせるという意味があったのです。

一休は15歳の時、安国寺を出て「地蔵堂」の堂守と
なります。この「地蔵堂」は「細川頼之」が建てた
お堂でした。「細川頼之」「楠木正儀」の線が
ここにもあったのだと私は考えています。


一休の母の墓が大阪門真市に

2018-03-13 20:06:23 | 一休と虚無僧

一休の母について、日野照子、日野中納言の娘伊予局とか、藤原顕純の娘、
花山院の娘などと、色々云われているが全部嘘である。根拠は全く無い。

母について書かれた唯一の書は、一休没後まもなく弟子達によって
編纂された『一休和尚年譜』である。そこには、

「母は藤原氏、南朝の高官の胤、後小松帝の寵愛を受けていたが、
懐剣を隠し持って帝の命を狙っていると后に讒言されて、宮中を
追われ、民間にはいって一休を生んだ」としか書かれていない。

日野とするのは、後年楠木の残党が禁裏を襲って三種の神器を奪う
事件が起きた時、日野某が手引きしたことによるものと考えられる。


『歴史読本』の昭和36年1月号に「一休さんは楠木正成の子孫だった」と

いうニュース記事が載った。「毎日新聞」から転載されたもの。

大阪府文化財保護委員で大阪経済大学教授の「東 光治」が「北河内郡、

門真町の史料編纂中に、守口市馬場町の米穀商「楠正治」さん方に伝わる

『橘姓楠家倉氏系図』を詳査し、発表した。

古系図は、タテ18cm、横10cmのもので、「楠木正成の三男・正儀(まさのり)の

子正澄が、河内倉満ノ荘津田村(現・枚方市)から、八箇ノ荘水島(現・河内郡

門真町三島)に移住し、従者7人とともに、このあたりを開墾した。そして正澄の

三女が後小松天皇の官女に上ったが、仔細あって退官し一休を産んだ」と

書かれているという。

 
『一休和尚年譜』には、「母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、

後小松天皇の寵愛を受けていたが、帝の命を狙っていると讒言されて

宮中を追われ、民間に入って一休を 生んだ」とある。


 

門真市三ツ島には一休の生母のものと伝わる墓がある。地下鉄
鶴見緑地線の終着駅「門真南駅」を約500m程北へ行った所、
大阪門真市三ツ島の「三ツ島公園」内。これが、昭和36年に
『橘姓楠家倉氏系図』が発見される以前から在ったものなら、
興味深い。後のものならニュースに便乗したものだ。

さて、では「楠正儀」とは誰か。「正儀」は楠木正成の三男。
楠木正行、正時の弟である。父・楠正成(まさしげ)、兄・正行
(まさつら)、正時が相次いで戦死し、“南朝の忠臣”として祀り
上げられたのに対して、「正儀」は北朝の後小松天皇と足利
三代将軍義満に降り、摂津、河内の守護に任ぜられている。

江戸時代後半から太平洋戦争までの「皇国史観」では、「正儀」は
“裏切り者”“父や兄たちの名声に泥を塗った”として抹殺されて
いた。だから『橘姓楠家倉氏系図』も世に出せない事情があった
のだ。

この系図には「楠正儀と三男正澄が河内国(大阪府)の倉満庄
津田村(枚方市)に移り住んだ」とある。

「大阪府門真市教育委員会の説明板」では「隠れ住んだ」と
書かれているが、「正儀は 1369年、河内と和泉、摂津の
住吉郡の守護職に任ぜられているので、公に移り住んだので
あろう。

しかし 1382年 「正儀」はまた南朝に寝返る。だが、三男の
正澄は、北朝側に留まったのであろう。北朝への忠節を示す
“人質”として、娘を宮中に差し入れた。「楠姓」では いかにも
まずいので、名目上は「藤原」姓の公家の養女として入内した
のであろう。

そして、1392年「南北朝の合一」が成り、三種の神器が北朝に
渡される。しかし、義満に騙されたと知った南朝側が、再び
神器を奪い返そうとする不穏な動きがあり、正澄の娘も
「懐中に懐剣を偲ばせ、帝の命を狙っている」と疑われ、
宮中を追われるのである。

そして、門真市の辺り にわび住まいして「一休」を生んだ。
一休が生まれたのは、南北朝合一が成った1年半後の
1394年1月1日。

追記

「東光治(あずま こうじ)」教授が発表したのですが、何かの記事に                                 「今東光氏も楠木説」とあって笑ってしまった。今氏もあの世で                                       ビックリしていることだろう。


風狂という生き方

2018-03-10 00:40:30 | 一休と虚無僧

ひろさちやの『“風狂”という生き方』が売れている。
(佼成出版社)

徹底して自由人であれ。そのためには「欲望」の虜に
なってはいけない。この世の常識にとらわれず、仏の
生き様にならって有意義に生きよ。

というもの。「風狂」といえば一休だ。一休は「普化
(ふけ)禅師」の生き様を倣った。普化は「瘋癲(ふ
うてん)」と呼ばれた。「フーテンの寅」さんの元祖だ。

「フーテンの寅さん」が人気になるなら、一休、そして
普化=虚無僧の生き様にも理解が得やすいのではと、
あれこれ思いを巡らす。虚無僧ブームの火付け役は
「フーテンの寅さん」か。寅さんのような旅をしている
私である。