中日新聞の夕刊にノンフィクション作家の
梯久美子さんという方が
「20世紀の日本を生きた人びと」という副題で
『続・百年の手紙』という手紙にまつわる話を連載されている。
“続”とあるのは去年も連載されていたから。
これがなかなかいい。
本にならないかなと、
本になったら絶対買おうと決めている。
今日は先日、父を連れて田舎に帰ったとき泊まって記事にした
人間魚雷「回天」に関係した話だった。
以下、新聞の全文
広島県呉市の大和ミュージアムに人間魚雷「回天」が展示されている。
潜水艦から出撃し、1.5トンの爆薬とともに敵艦に体当りする
一人乗りの潜航艇だ。
外から見るだけで、搭乗席のスペースの小ささが分かる。
いったん出撃すれば戻ることはできず、脱出装置もない。
搭乗員は密閉された狭い空間の中で、一人死んでいかなければならない。
志願して回天の搭乗員となった学徒出身の士官がいる。
慶応大学水泳部で活躍した塚本太郎。昭和二十年一月、
西カロリン諸島ウルシー島海域で敵艦に向かって出撃し亡くなった。
出撃の二カ月前に帰省許可が下り、塚本は山口県・大津島の
回天基地から東京の実家へ帰る。任務のことは一切語らずに
家族と二晩を過ごし、基地に戻った。ほどなくして、家族のもとに
遺書が届く。その一節にこうあった。
<体に気を付て下さい、便りは致しませんが心配なさらんで下さい。
昔の私ではありません。
ご両親の幸福の条件から太郎を早く除いて下さい。(中略)
帰りの車中はお陰で愉快でしたが母上の泣声が聞えて嫌でした。
もっと愉快になつて勝利の日まで頑張ってください>
塚本にとって死よりも辛いことは、母親が自分のために
悲しむことだった。自分がどんなに母親に愛されているかを、
よく知っていたのだ。
辺見じゅん『戦場から届いた遺書』(文春文庫)によれば、
塚本が残した手帳に『特攻隊』というメモがあり、そこには
「壕ヲ埋メタ屍ガ無ケレバ城ヲ攻略スルコトハ不可能ダ」
「愛スル人々ノ上ニ平和ノ幸ヲ輝シムル為ニモ」などの走り書きに続いて
「母ヲ忘レヨ」の文字があったという。別のページには
「俺ノ母親ハ日本一ダ」と書かれていた。
東京の実家から大津島の基地に戻る朝、塚本は、
見送る母親が着ている着物を見て
「お母さん、その着物で僕の座布団を作ってくれませんか」と言ったという。
母親が着ていたのは紫色の銘仙だった。母親はその着物の片袖で
座布団を作り、小包で基地に送った。
座布団は、回天の搭乗席に敷くためのものだった。
その目的は言わず、腰掛け用の小さな座布団をと、塚本は注文したそうだ。
塚本の母親は晩年、自分が死んだら、かならずこの着物を着せてほしいと、
繰り返し家族に頼んでいたという。
母の座布団とともに海に沈んだとき、塚本は二十一歳三カ月だった。
回天の戦没者の平均年齢も二十一歳である。
塚本は長男で、十歳離れた弟がいた。その弟に宛てた遺書はこうある。
<兄貴ガツイテヰルゾ
頑張レ
親孝行ヲタノム>