座間市で起きた、9人を殺傷し遺体を解体し自室のアイスボックスに隠していた、という事件は、その事件の内容と犯人の罪悪感をさほど感じていないような自供など、毎日のようにセンセーショナルに報道され続けている。
この事件の切っ掛けとなったのが、Twitterであったことなどから、Twitterの利用制限などの意見が出ているようだが、Twitterが悪いわけではなく、利用者側の問題のほうが大きいように思っている。
ただ、TwitterをはじめとするSNSの普及が、このような凄惨な事件の背景にあることは、違い無いだろう。
SNSが無ければ、これほどの人たちが犯人と出会う可能性は低かったからだ。
そのため、SNSなどで知り合った人とは、気軽に合わないなどの「SNSとの付き合い方指導」が、必要なのではないかということも言われるようになってきた。
もちろん、「付き合い方」についての警告をする必要はあると思うのだが、今回の事件で感じたことは「ことばが軽くなっている」ということだ。
本来であれば「死」ということばは、とても重いことばだと思う。
「健康であることを前提として、日々生活をしている」と言われる日本人にとって、「死」をイメージさせる病気、例えば「がん」を示唆される(=「要精密検査」と言われる)だけで、強い拒絶反応を示す人も多い。
実際の告知の場面では、茫然自失となり「がん」という病気を受け入れられない人も多くいる。
同様に、親しい人の「死」は、大きな衝撃であり、葬送が終わっても心理的に受け入れられずに辛い日々を過ごす方も数多くいる。
親しかったからこそ、亡くなった方の「死」を受け入れられないことは、極普通にあることだと思う。
それほど、日本人にとって「死」ということばは、重たいことばだったと思うのだ。
にもかかわらず、今回の事件に巻き込まれた人たちは「#死にたい」ということばによって、犯人と出会っているのだ。
犯人の供述から「本当に『死にたい』という人は、いなかった」ということが分かっていることから、余りにも「死にたい」ということばを使うことが、軽いことになってしまっているのでは?という、気がしたのだ。
テレビのバラエティ番組の影響とも言われている「死ねば(いいじゃん)」ということばなどが、若い人たちだけではなく、中年という年齢に差し掛かった人たちまで、口をすることがある。
テレビの影響だけなのかは、わからない。
ただ、ここ10年余りで感じることは、以前であれば深刻にとらえられていたことばが、とても軽く使われるようになった、ということだ。
その顕著な例が、「死」ということばのように感じている。
表面的な部分だけを見ると、日本人の「死生観」が大きく変わってしまったのでは?という、気がするときすらあるのだ。
昨年あたりから、学校で「道徳」の授業の検討がされるようになってきた、という報道がある。
であれば、時の政府の都合のよい「道徳」ではなく、「死生観」というものを学んでほしいと思っている。
がんの緩和ケアの担当医の先生は「日本人の死亡率って知っていますか?」と、よく問うことがある。
日本人だけではなく、人間の死亡率は100%なのだ。
いくら科学が発達し、医療が進歩しても「不死」ということはあり得ない。
だからこそ、一番多感な中高校生の時に「死生観」を学んでほしいと思うし、「死」ということばの重さを理解して欲しい。
そうすれば、簡単にTwitterで「#死にたい」などと、ツイートすることは減ると思うからだ。