2,3日前、ネットニュース等でも取り上げられていた、イギリスの美術館で起きた「暴挙」。
ニュースの内容を読むと、暴挙の理由はわかるのだが、その行動がチグハグ過ぎて「この人達は本当は何をしたかったのだろう?」という、疑問がわいてくる。
Huffpost:ゴッホの代表作「ひまわり」にトマト缶をぶちまけた環境活動家を逮捕。化石燃料の新規プロジェクト停止を要求
このニュースを知った時、「何故ゴッホの『ひまわり』?」という、疑問がわいた。
確かに、ゴッホの「ひまわり」は、人気のある作品だ。
バブル期には、一時期日本の企業が所有をしていたこともあったという、記憶がある。
それほど、ゴッホの代表作であることには、代わりない。
ただ、ゴッホの出身地は英国ではなく、オランダだ。
その意味では、英国とは全く関係がない。
著名な作品を傷つける事で、自分たちの行動に注目が浴びる、という考えだとしたら、それは稚拙な行動であった、ということだろう。
それが例えば、英国の画家・ターナーであればそのインパクトは、とても大きかったはずだ。
もしくは、ヴィクトリア&アルバート美術館に収蔵されている、アーツ&クラフトの推進者であった、ウィリアム・モリスの作品であれば、その意味も違ったことだろう。
それが、オランダの画家・ゴッホの「ひまわり」ということになれば、ゴッホや作品の「ひまわり」に対する同情のようなものは起きても、トマト缶を投げた環境活動家に対しては、冷ややかなというか半ば呆れたような印象しか持たないのでは?
それが世間の見方のような気がするのだ。
そのようなことまで考えた行動だったのだろうか?
とても、そこまで考えていたとは思えないのだ。
時として人は「注目を浴びたい」という思いから、突飛もない行動を起こすことがある。
そのこと自体を悪いという気はしないし、誰しも「注目を浴びたい」という気持ちは、大なり小なり持っていると考えている。
その「注目を浴びる」ということの先のことを考えるのが、世間の多くの人たちだろう。
「『自己満足的な行動』だと、世間から失笑を買うのでは?」とか、「良い意味での注目を浴びる為には、どうすれば?」と、考えるため躊躇してしまう。
それが「注目を浴びる」という一点だけにこだわってしまうと、世間からの共感を得る事なく、失笑のネタとなってしまうのだ。
今回のように、美術館に収蔵されている作品を傷つけたということになれば、犯罪行為となってしまう。
とりもなおさず、「環境団体と言っても、自分たちの行動が美術館の環境を壊している」ということになっている。
短絡的な「注目を浴びる」という手段ではなく、他の「注目を浴びる」という方法があるとすれば、それがプロモーション(=広告)ということになるのだろう。
個人的には、何故、ゴッホの「ひまわり」だったのか?、理由が聞きたい事件でもある。