日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

アートと政治・・・あいちトリエンナーレ「表現の不自由その後」

2019-08-07 16:39:15 | アラカルト

俄かにいま開催されている「あいちトリエンナーレ」が、注目を浴びているようだ。
理由は、ご存じの方も多いと思うのだが、展示の中に「いかがなもの?」と、多くの人が疑問を呈する作品があったからだ。

「いかがなもの?」と疑問を呈することになった展示は「表現の不自由展・その後」だ。
そして、河村名古屋市長や大村愛知県知事などが、この展示に対して相当の反発する発言をしたり、京都アニメーションの放火事件を彷彿と指せるような脅迫があったコトで、展示そのものを中止することになった。
中日新聞:表現の不自由展、中止 あいちトリエンナーレ

今回中止に追い込まれた「表現の不自由展・その後」という展示は、今回が初めての展示ではなかったようだ。
2015年に東京のギャラリーで初めて展示された「表現の不自由展」の中から、あえて今でも公共の施設などで展示を拒否されている作品を集め、「表現の不自由展・その後」として展示をする、という企画だったようだ。
企画・展示までの経過を見ると、随分挑戦的な企画であり展示であった、ということが十二分にわかる。

特に第二次世界大戦に関わる展示に関しては、今の日韓関係などを考えると慎重な検討が必要だったように気がする。
今回のアートディレクターをされた津田大介さんは、ジャーナリストであってアートディレクターという経験が無い方、ということを考えると、アートディレクターではなかったからこそ、このような展示をしたかったのでは?という気がしてくるのだ。

というのも「アート=芸術」というものは、受け手となる鑑賞者によってその感想は大きく違ってくる。
その感想の違いを含めて一つの芸術作品として成り立っている、と言っても過言ではないと思う。
しかしそこには政治的要素が含まれるのか?と言えば、どうなのだろう?と、考えてしまうのだ。

例えば、ピカソの代表的な作品「ゲルニカ」は、第二次世界大戦中ドイツ軍がスペインのゲルニカを爆撃した時の悲劇を描いたものだ。
ピカソが描いたのは「ゲルニカ爆撃」を受け、悲嘆にくれる市民などの姿だ。
誰か(この場合は、ヒットラーでありドイツ軍ということになるだろう)を批判する為に描いた作品ではなく、戦争に巻き込まれた人々の悲しみ、嘆きなどを表現することで「戦争」の本質的なものを表現している。
だからこそ、半世紀以上たっても常に高い評価と社会的影響力を与え続けているのだ。

確かに、芸術表現の中には時の政権から排除されたり除外されたりするコトはある。
理由は「(おそらく)気に食わない」からだろう。
しかし、今回の「表現の不自由展・その後」の作品については、どうなのだろう?
韓国が積極的に世界展開をしている(ように思える)「平和の少女像」と呼ばれる、従軍慰安婦の少女像や昭和天皇の肖像を燃やすなどというのは、アートなのだろうか?
もちろん、作者は「アートである」と言われるだろうが、単なる政治信条を表現しただけなのでは?という、気がするのだ。
特に「平和の少女像」の場合、韓国が政治的目的で利用していることを考えると、それはアートではなく「政治的宣伝材料」と、とらえられてもしかたない。

今回、アートディレクターを務められた津田さんは「このような作品を見て、表現の自由ということを考え・議論して欲しかった」という趣旨の話をされていた。
確かに、今の日本社会において安倍政権に対して「どうなのか?」と、疑問を呈するようなことを言ったりネットに書き込むと、「反日」というアクションが次から次へと起こり、反対意見を堂々と言える雰囲気ではないのも事実だろう。
だからこそ、多くの人はその議論から遠ざかっている、ということもあるとは思うのだが、もしアートを通じてこのような議論を巻き起こすのであれば、もっと違った作品があるのでは?
例えば、好き・嫌いは別にして1980年代~2000年代の頃のベネトンの企業広告を担当した、写真家・オリビエーロ・トスカーニ氏の一連の作品などだ。
「生理的にムリ!」という作品もあるが、その作品からは考えさせれるテーマがあり、実際広告が発表されるとその作品についての議論が起きた。

「表現の不自由」というのは、政治的ではなく社会に何かを問いかけ続けるだけの力がある作品に、与えられる言葉なのではないだろうか?




8月6日に思いをはせる

2019-08-06 20:18:45 | 徒然

今年のまだ寒さを感じる春先だったと思う。
新聞の新刊欄に「原民喜」の文字があった。
数年前、若松英輔さんのエッセイに登場していたので、原民喜という作家の名前と彼が残した作品は知っていたのだが、何故、今原民喜なのだろう?と、疑問に感じたのだった。

Wikipediaなどで検索をしていただければわかると思うのだが、原民喜は1951年に亡くなっている。
そして、若松英輔さんが取り上げていた作品「夏の花」という作品は、広島に原爆が投下された直後、広島の街を妻を探しさまよい歩く一人の男性を描いた作品だ。
そのような冒頭だけを知ると、原民喜の実体験のように思えるのだが、原民喜の奥様は原爆が投下される以前に亡くなっている。
もちろん、原民喜自身が広島で被爆したことは事実なのだが、この原爆投下後、町が消滅した広島で妻を探してさまよい歩く男性は、原民喜自身の姿ではないようなのだ。
原民喜自身が広島の街を歩きながら、であった数多くの人たちの姿なのでは?という、気がする。

今年、広島原爆記念館の展示内容が変わった。
原爆投下による熱線で、歪んだ三輪車や黒く煤けたごはん(と言っても、麦飯か何かだろう)の弁当箱、被ばく当時着ていたであろう服装など、そこに「日常生活があり、原爆によって一瞬に日常を奪われた人たちのリアルな姿」を、服や持ち物などを展示する、という内容に代わったのだ。
確かに「戦争」は、非日常的な世界のことように思われるのだが、実は日常生活のすぐ隣にあるモノなのだ、ということを実感できる。

それをより実感させるのが、先週末NHKで放映された「この世界の片隅に」だろう。
終戦記念日に合わせ「戦争」をテーマにした映画やドラマ、アニメなどが放映されてきた。
その多くは「戦争の悲惨さ」を強く印象付けるものだったように感じるのだが、「この世界の片隅に」は「日常の隣にある戦争」という、これまでとは違った視点で、「戦争の悲惨さ」を描き出していた。
だからこそ、受け手となる私たちは、現実味を持って戦争というものを感じることができ、第2次世界大戦だけではなく、その後世界各地で起きた戦争や紛争が起きた場所は、特別な場所ではなかった、ということを知ることができるのだ。

原民喜が見たであろう、被爆後の広島の街をさまよい歩く人々の姿もまた、日常生活をある日突然失ってしまった人たちが、日常を取り戻すためにさまよい歩いていたのかもしれない。
しかし、それまでの日常は戻ってくることは無く、会いたい家族が既にこの世にいない姿でもある、ということなのだと思う。

幸いなコトに、日本は第二次世界大戦後「戦火に見舞われる」ということは無かった。
自衛隊のPKO派遣などは別にして、戦後〇〇年という年数は日本が平和だった年数でもある。
その年数の長さは、当たり前のことが当たり前のこととして、家族と過ごす時間であったり、自分の好きなコトができる時間の長さでもある。
この時間が、日本だけではなく様々な国で続くことを願うことが、原民喜が被爆後の広島の街でさまよい歩く人々への弔いとなるのかもしれない。


情報の地域差が無くなりつつある

2019-08-05 19:44:28 | ライフスタイル

午前中、FM番組を聞きながら過ごすことが多い。
「時間」を測りながら動くことが多い午前は、ラジオが時計代わりになっている。
特にFM番組は、様々な音楽を聴くことができるので、チョッとした息抜きにもなる。
ここ半年くらいだろうか?なかなかオシャレな音作りをしているバンドが、頻繁にオンエアされるようになった。
バンドの名前は「オフィシャル髭男dism」という、男性4人のバンドだ。

気になって公式HPを見てみたら、「山陰No.1ピアノPopバンド」という紹介がされていた。
メンバーが島根大学と松江高専出身ということで「山陰No.1」ということになっているらしい。
山陰という地域は、多くの人にとって「イメージがわかない地味な田舎」だと、山陰出身者の私は感じている。
強いて上げると「鳥取砂丘と出雲大社」だろうか?
間違いは無いのだが、地方の中でも「イメージがわきにくい」ほどの田舎となると、その地域に暮らしている人たちも都会的センスを持っていないのでは?という印象を都会に住む多くの人たちは思っているのではないだろうか?
だからこそ「山陰No.1」というキャッチコピーが、目を引き興味を引くのだ。

実際、私自身「田舎出身なのに、案外都会的なセンスを持っているんだね?!」と、言われたコトが何度かある。
「田舎出身」だけならまだしも「名古屋にいるのに、都会的センス」と言われたことも度々ある。
「情報量の多さ=センスの良さ」という潜在意識、ということだろうか?
確かに、私が高校生だったころ、様々な情報の発信は米国経由東京だった。
特に洋楽の世界について言うなら、米国のヒットチャートが世界のポピュラー音楽の基準だった、と言っても過言ではなかったと思う。
そして、そのような情報を得る「タイムラグ」は、確実にあった。
今でも定期発刊される雑誌などは、東京と地方とでは1~2日の遅れがある。

しかしそれを大きく変えたのは、やはりインターネットの登場だろう。
オフィシャル髭男dimsのメンバーたちは、子どもの頃には既にインターネットがあり、世界と簡単に接することができた。
私が高校生だった40年以上前は、レコードの発売も米国でリリースされてから2カ月以上たってから、日本でリリースされれば早い方だった。
2か月経過しても、田舎のレコード店の店頭に並ぶとは限らず、取り寄せをしてもらったことも何度もあった。
そのような「タイムラグ」が、インターネットを利用した音楽配信やyoutubeでの映像配信により、無くなりつつある。
興味のある情報であれば、2カ月も待たずに手に入れることができるようになったのだ。

このような環境の中であれば、興味ある情報はどんどん集められ、影響を受け、センスそのものも磨かれている機会は増えてくるだろう。
むしろ問題になるのは、興味が無いモノ・コトに対しての「情報を得ない」ことによる思考の停止であったり、偏った物事の見方に凝り固まることなのではないだろうか?

「メディアリテラシー」ではなく、情報の時間差が無くなりつつある今だからこそ、「情報リテラシー」などの力がこれからは必要となってくるような気がする。


ファッションをつまらないものにさせたのは、誰だ!

2019-08-03 21:06:03 | ビジネス

Yahoo!のトピックスに、日本のアパレル産業の不振の理由の一つが分かるような記事があった。
元となった記事は、プレジデントに掲載されている。
プレジデント:”安い服”にこだわり続ける日本人の残念さ 似たり寄ったりで没個性が加速する

バブル経済が崩壊してから、日本の生活者の意識は「守り」に入ったと思う。
冒険をしない、堅実で安定感のあるモノ・コトを求め、価格そのものにもシビアになった。
それがファッションの世界でいうなら、ファストファッションの台頭ということになるのだろう。

ファストファッションが悪い、という気はない。
ただ、日本の生活者の思考が「安価でみんなと同じファッション」に凝り固まってしまっている感が、ファッションをつまらないものにしている、ということだと思う。
それが顕著に表れるのが、「リクルートスーツ」と呼ばれる就職活動用のスーツでありヘアスタイルやバッグ、靴だろう。
まるで「制服」のように、同じようなデザイン、色、ヘアスタイルで「(企業側からの)就職活動の同調圧力でもあるのか?」という、印象すら受ける。

この記事にあるように、ファッションデザイナーも若手と呼ばれる人たちが登場しにくくなっている傾向は、ニューヨークだけではなくファッションの中心地・パリでも同じかもしれない。
若手デザイナーの一人ステラ・マッカートニーなど、キャリアから言えば若手というよりも既に中堅と言ってもおかしくはない。
日本人デザイナーに関していえば、残念としか言えないほど20代、30代のデザイナーが登場していない感がある。
「東京ガールズコレクション」などが、華やかに取り上げられるコトが多いが、コレクションと言いながら実は即売会だ。
「売れる服をガール(=若い人たち)に即売する会」なので、パリやミラノ、ニューヨークなどで発表される「デザイナーがファッションとして提案したい服」とは大きく違う。
そもそも、パリやミラノ、ニューヨークなどのコレクションは、「大人の(経済的にも豊かな)女性」を想定したデザインの発表をする場面であり、若い女の子たちからはすれば「いつか、あのような服が似合う女性になりたい」という、憧れを持たせるようなデザインが中心にる。
パリコレなどでは、突飛もないデザインで「誰が着るの?」というデザインもない訳ではないが、コレクションとして発表されるデザインの中で7割程度は、実際に販売に結びつくものではない、とバブルの頃ですら言われていた(と記憶している)。
突飛なデザインであっても、デザイナーのファッション思考や次の時代感を表現している、という点が重要で、そのデザインテイスト(デザインの雰囲気から何を受け止め、トレンドを創っていくのか?)ということを見極めるバイヤーも数多くいたのは確かだろう。

しかし、ファストファッションが主流になっていくと、このようなトレンドを創るバイヤーは必要ではなくなり、コンサバティブと言えば聞こえが良いが、ファストファッション側が提案しているコーディネートが、安心ファッションとして受け入れられるようになってしまった。
それが「ファッションをつまらなくさせた」と要因なのだと思う。






「たかがブラ、されどブラ」・・・女性にとって悩ましい問題

2019-08-02 18:57:54 | ライフスタイル

Yahoo!のトピックスに、面白いデータ記事があった。
元となった記事は、ファッションスナップというファッション情報サイトだ。
FASHIONSNAP:Dカップ以上の割合が30年間で3倍に、トリンプが最新版「下着白書」を発表

拙ブログにこられる男性諸氏にとって、ブラジャーのカップサイズというのはさほど興味が無いことかもしれない。
しかし、多くの女性特に若い女性にとって、ブラジャーのカップサイズはとても重要な問題だ。
ブラジャーのカップサイズを含めサイズそのものが合っていないと、どんなファッションをしても似合わないからだ。

例えば、アニメ「ルパン三世」に登場する峰不二子さんのようなグラマラスなのにウエストがキュ!と締まった体形は、確かに憧れだが現実にはそのような体形は絶望的なほど無理がある。
「グラマラス=ふくよか体形」とも受け止められるし、痩せていれば当然バストサイズは小さくなり「貧乳」と揶揄されることとなる。
グラマラスでも痩せていても、多くの女性にとっては「重大な体形の問題」であり、ファッションという見た目にも大きく影響する問題なのだ。

このデータだけを見ると、女性の体形は大きく変化したように思えるはずだが、実はそれだけではない。
一つは、女性のブラジャーに対する考え方の変化だ。
おそらく平成が始まった頃から「寄せて上げる」という、キャッチコピーのブラジャーが人気になった。
このタイプのブラジャーそのもののサイズ展開が、それまでとは大きく変わってきたような気がするのだ。
昭和の頃のブラジャーのサイズ展開の中心は、Aカップが中心でCカップと聞くと「随分大きな胸」というイメージが強かった。
女性の多くは「自分のカップサイズを知らず」に、「普通のサイズってたぶん、Aだよね」という感覚で、ブラジャーを着けていたような記憶がある。

それが昭和が終わる頃になると、「ボディコン」と呼ばれるファッションが若い女性の間で大ブームになると、体のラインを強調するために「寄せて・あげる」という「補正」を目的としたブラジャーが人気になった。
と同時に、「寄せて上げる為に」正しいブラジャーの着け方も重要になってきた。
その結果、自分のバストサイズがAではなくCだった、とかDカップだった・・・ということがわかるようになってきた。
と同時に「寄せて上げる」ブームの頃から、ブラジャーのカップサイズの展開も増えてきたように思う。
百貨店の専門コーナーではなく、イオンなどのスーパーの下着売り場でも、それまでほとんど見ることが無かったDカップ以上のサイズ展開がされるようになってきたのだ。
それだけではなく、「カップサイズの見方」が広く知れ渡るようになったことも、大きいだろう。
それまでは、「バストトップのサイズ=ブラジャーのサイズ」だという認識しかなかったことが、「バストトップとアンダーバストの差=カップサイズ」というサイズ表が一般的に知られるようになったことで、「間違ったブラ選びをしていたんだ」と気づく女性も多かったのではないだろうか?

そして今は、このようなカップサイズにとらわれるよりも、より着け心地の良いブラジャーを求める女性が増えている。
ユニクロなどが展開をしている「ソフトブラ」と呼ばれる、ワイヤーが無くても綺麗なバストをつくるコトができるブラジャーだ。
女性がよりアクティブに行動するようになると、ブラジャーにつきもののワイヤーなどの窮屈さから解放されたい、と思うようになってきたのでは?と考えている。
自分のカップサイズを知った上で、より着け心地が良くストレスを感じないタイプのブラジャーを選ぶ女性が増えているように感じるのだ。
そのようなブラジャー選びができる女性の多くは、TPOに合わせたファッションを楽しめる女性が多い、という気もしている。

「たかがブラ、されどブラ・・・」、ブラジャー一つにも女性のファッションやライフスタイルなどと大きく関わっているのだ。


7Payの終了は、何をもたらすのか?

2019-08-01 20:32:25 | ビジネス

運用初日から、大トラブルが起きた「7Pay」を9月で終了すると、セブンイレブンが発表をした。
日経新聞:セブンペイ、9月末終了を発表 副社長「心よりおわび」

運用開始初日から、大トラブルが発生していたにもかかわらず、利用者への注意喚起の内容は利用者側に負担を強いるモノだった。
それから数日後(だったと思う)、やっとシステムの急ごしらえの為に起きた初歩的なミスが重なり、大きなトラブルへと発展したとしての説明があった。
おそらくこの時点で、生活者の多くはセブンペイに対して信頼も期待も無くなっていたのでは?という気がする。
何故なら、大トラブルが起きた時点での対応そのものが、利用者に大きな負担と損害を与えるばかりで、利用者側のメリットが感じられるような企業対応ではなかったからだ。

そして7月30日には、大トラブルが発生した時よりも衝撃的な対応をセブンイレブンがしている。
全会員のパスワードを強制リセットしたのだ。
日経新聞:セブン、全会員のパスワードを強制リセット 1650万人

この強制リセットによって、会員は7Payが使えなくなってしまった、ということになるのだが、初期段階でのトラブルを解決することができない為の対応だとしても、利用者側に対しては一体どのような案内をしたうえでの「強制リセット」だったのだろう?
このニュースを聞いたとき「一斉強制リセットで、7Payそのものをなかったことにするのかな?」という、印象を持ってしまった。
図らずも、その印象はあたったようだ。
このような経過があっての来月末終了というのは、仕方のないことというか当然のような気がする。
むしろ、発表そのものが遅いくらいなのでは?という、気がしている。
ベストなタイミングだったのは、運用初日のトラブルが発生した時だったのではないだろうか?

しかし、セブンイレブン側は当初「(根拠の無い?)強気さ」で、ユーザー側に不便を強いた。
上述した通り、この時点で「7Pay」に対するキャッシュレス利用の信頼は、大きく崩れ去ってしまっていたと思う。
そして「7Pay」から、他のキャッシュレスサービスの乗り換えた人も多かったのでは、無いだろうか?
しかし世間ではそのような見方をする人ばかりではないらしい。
産経新聞:セブンペイ廃止 キャッシュレス後進国脱却に打撃

運用初日からトラブルばかりだった7Payということを考えれば、ユーザーの多くは他のサービスへの乗り換えをしたか、「しばらく様子見」ということで、淘汰されるのを待っているだけなのでは?
何故なら、今の「〇〇Pay」と呼ばれるモバイル決済には一長一短があり、利用者によってはメリットが感じられない、と思っている人も多いのでは?
単にキャッシュレス決済、というのであればプリペイ式カードなども含まれることを考えれば「打撃」というほどではないと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


吉本のお笑いが、つまらなくなった(ように感じる)理由が分かった気がした

2019-08-01 12:35:50 | アラカルト

今日の朝日新聞に、吉本興業が主催する「合宿参加」の誓約書についての記事があった。
記事を読んだとき「お笑いを提供する吉本なのに、笑えないな~」という、気がしたのだった。
Huffpost:「死亡しても責任は一切負いません」吉本興業が研修生に誓約書

この誓約書は、吉本興業が主催している「NSC」と呼ばれるスクールでの合宿参加の為も誓約書のようだ。
「NSC」の授業内容が分からないので、「死亡」を想定するほど体を張った研修があるのか?という印象を与える内容なのだが、Huffpostの記事ではそのような研修ではないようだ。

研修の内容としては、危険性の無いものだとしても、何故誓約書にこのような項目を入れていたのだろうか?
お笑いを学ぶ研修だから、この程度のジョークは許される、という判断があったということだろうか?
参加対象者の多くは、NSCの生徒(というのだろうか?)なので、誓約書の内容にジョークが入っている、という認識をしていると思っていたのだろうか?

吉本興業側としては、今回の「闇営業」の問題から、このような「誓約書」まで発展するとは思っていなかったと思う。
このような「誓約書」が、新聞に報じられるということ自体、青天の霹靂だったかもしれない。
Huffpostの記事を読むと、そのような「ドタバタさ」を感じる。
ただ、記事の中にある「コンポライアンスやリスク管理の強化の為、免責事項の範囲を広げる内容とした」というのは、言い訳にもならない説明ではないだろうか?

そもそも「コンポライアンスやリスク管理」は企業側が行うものであって、免責事項として挙げるものではない。
「研修中の死亡」についての免責も驚いたが、一連に関わる訴訟や賠償なども受け付けない、という内容になってしまうと、それは「誓約書」ではない。
ある意味、参加者に対して「本気度・真剣さ」を図るための一文だったのかもしれないが、笑える内容ではないし、笑って済ませられることでもない。
研修を実施する主催者側の責任放棄、とも読み取れるような内容だからだ。

確かに、昨今「モンスター〇〇」と呼ばれる、クレーマーが数多く存在するのは確かだ。
とすれば、「NSCに入校し、この研修に参加してもプロのお笑い芸人として活躍できる保証はありません」という、一文が必要なだけで、「研修中の事故などによる死亡」やその他免責事項は、要らない文言だったのでは?

お笑いと公的書類のあるべき内容と混同してしまっていた、というのであれば、それは企業内にあるはずの「法務担当者」の怠慢だろう。
その理解の違いが、吉本興業という企業全体にあったとすれば、社会の認識とは大きくズレた理解や感性を持っていた、ということになる。
そのような「ズレた理解や感性」を持った企業が行うお笑いの研修やスクールだと考えると、元々話芸としての漫才に含まれていたはずの社会風刺や権力に対する皮肉などを笑いに変えることは難しいだろう。
「闇営業」で取り沙汰された芸人さんたちの話に、なんとなく笑えないな~と感じていた理由が分かったような気がしたのだ。