
行事は奈良時代の752年から続く行事とされて、TVニュースでしか見たことはありませんが、二月堂の上から「お松明」の火の粉が舞う壮大な儀式だと記憶しています。
「お水取り」では「悶伽井屋」からお香水を組んで十一面観音にお供えする儀式があるとされ、東大寺二月堂で汲まれるお香水は若狭の鵜ノ瀬に流される「お水送り」によって、若狭(福井県)から奈良(東大寺)まで送られた水とされます。
儀式の上では福井県の鵜ノ瀬と奈良県の東大寺二月堂は地下でつながっているということになりますね。

若狭で「お水送り」を営んでいるのは「若狭神宮寺」で、鵜ノ瀬から流されたお香水は10日間をかけて奈良に到達するとされています。
若狭神宮寺を訪れたのは「お水送り」の寺院であることと、寺名の通り神仏習合の色濃い寺院であること、「みほとけの里」といわれる小浜の仏像を見たいなど、いくつかの想いを持っての参拝でした。

仁王門は、駐車場から寺院と反対方向になりますが、神社・仏閣には遠くても門から入ると決めておりますので、まず仁王門まで歩いていきます。
仁王門までの道に1m近い蛇が横たわっていて肝を冷やしましたが、これは出迎えの挨拶なんだろうと解釈して歩きます。
この仁王門は鎌倉時代末期の再建で重要文化財に指定されていて、どちらかというとシンプルな印象を受けます。
さすが神仏習合の寺院だと思えるのは、仁王門に神社のような注連縄(しめ縄)が張られていることでしょうか。

仁王門には1385年の造立とされる金剛力士像が睨みを効かせています。
ただし激しい表情の仁王というよりも、円やかで優しい感じをもってしまう表情をされている仁王像です。


仁王門からの参道は時代劇の撮影場所のような雰囲気がするのどかな田舎道が続きます。
獣害対策のネットがなければ時代感覚がなくなってしまいそうな場所ですね。

反面、寺院本堂が近くなってくると石垣に囲まれた本坊の横を通ることになります。
かつては七堂伽藍二十五坊の大寺院だったとされますので、その名残りなのでしょう。

創建は寺伝によると、714年和朝臣・赤麻呂により神願寺として創建されたとされ、翌715年には若狭彦姫神を根来白石(若狭)より迎え神仏両道の寺院となってと伝わります。
その後、鎌倉時代の初めに若狭彦神社の別当寺となって神宮寺と改称されたそうです。

まず「悶伽井屋」で身を清めましたが、この井戸の水こそ「お水送り」に使われる水だそうです。
手に水を浸してみると冷たさに驚きましたが、儀式上のこととはいえ、この水が奈良まで流れていくと想像すると若狭と奈良の縁(えにし)に感慨深いものがあります。

本堂は1545年に雷火によって焼失したとされますが諸仏像は全て難をさけることができ、室町時代末期の1553年に再建された本堂が現存している堂になるそうです。
再建したのは戦国大名・朝倉義景で間口14m・奥行17mの堂々たる姿で、重要文化財に指定されています。

本堂の正面には注連縄(しめ縄)が張られており、神仏習合の寺院の珍しい光景が見られます。
この注連縄(しめ縄)が常世と現世の結界になっているのかもしれませんね。

外陣には廊下を回り込んで入ることになりますが、横手には雰囲気たっぷりの茅葺きの茶屋があり、落ち着いた境内になっていました。
この茶屋の中には茶室と堀ごたつ式の囲炉裏の部屋がありましたが、どういった方がここでもてなされるのでしょうね。


本堂内は外陣までしかはいれないため、外陣から拝んで格子越しに須弥壇に並ぶ仏像を拝観することになります。
外陣も内陣も広く造られていますので仏像までの距離はややあるかもしれませんが、様子は見ることは出来ます。

須弥壇の中央には本尊の「薬師如来坐像(藤原末期)」と脇侍に「日光月光菩薩立像(藤原末期)が2躰。
その前には「十二神将(鎌倉初期)」が周囲を固めています。
左側の須弥壇には中央に「千手千眼十一面観音坐像(伝奈良期)」が安置され、両脇で「不動明王立像(平安末期)」と「多聞天立像(平安末期)」が守護していました。

ポストカード
境内には樹齢500年といわれるスダジイの大木があり、この木は幹周り6.4m・樹高18mとされていて非常に生命感を感じる大木でした。
寺院の裏側にも独特の形をしたスタジイの老木がありましたので、寺院を取り囲む環境自体が不思議な空間となっています。

さて、この神宮寺の「悶伽井屋」で汲まれたお香水が奈良へ向けて流されるという「鵜ノ瀬」にも立ち寄ってみました。
道路に面した所に一之鳥居が建てられており、目と鼻の先の二之鳥居の横には小さな祠が祀られています。

鵜ノ瀬は水量が多く山から流れ出てきた清流ですが、どうやらこの辺りの場所で「お水送り」の儀式が行われているようです。
「お水送り」の場所ということもあって、ここは訪れる人が多かったですね。

川の向こうの巨石に注連縄が張られていますが、ここには奈良の二月堂につながる水中洞窟があるという伝説があるようです。
鵜が潜って奈良まで行ったとの話もあるようですが、これは後から作られた逸話なのでしょう。


ポストカード
神宮寺の案内文には“若狭は朝鮮語(ワカソ)が訛って宛字した地名で、奈良も朝鮮語ナラが訛って宛字されている。”とあります。
小浜は朝鮮半島から大陸の文化が流れ込む窓口であったとともに、京都・奈良へ大陸の文化を運ぶ拠点であったことが伺い知れます。
そう考えると「お水送り」は当時の文化・民俗の流通を象徴化した儀式だったのかもしれませんね。