僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

曲谷(白山神社)の石造板碑~滋賀県米原市曲谷~

2019-12-18 06:12:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 伊吹山の麓、米原市から姉川ダムや奥伊吹スキー場へと続く県道があり、その途中にある曲谷という集落には鎌倉期の作といわれる板碑があるといいます。
板碑は“頭部を四角錐状に作り、二条線を彫った下に仏像を彫刻したもの(米原市教育委員会)”で卒塔婆の原型となったともいわれ、一般的に板碑は関東に多いとされているようです。

曲谷集落は「石臼(粉挽臼)作りの里」と呼ばれ、大正末期まで石臼が造られており、明治の時代には集落の全ての家が石屋であったといいます。
石工の歴史は平安時代末期にまで遡ると伝わり、石造板碑の拝見と合わせて石臼の里へと向かいました。



姉川に沿った道中には所々に道祖神が祀られ、古来より最奥の甲津原に至る道筋に集落が点在していたことが伺われます。
姉川ダムの手前まで来ると曲谷の集落が見えてきたため、石造板碑のある白山神社を探し回るが、狭い集落にも関わらず場所が分からない。
人の姿があったので場所を教えてもらうと、“道が狭いし、歩いてもわずかな距離だから家に停めておいていいよ。”とありがたい言葉をいただく。



山の斜面に建てられた白山神社は、731年に行基が白山大権現を勧請して社殿を造営したと伝わる神社だとされます。
隣村になる米原市甲賀にも白山神社がありましたので、この界隈には白山神社が多いのかもしれません。

境内に入って驚くのは「乳イチョウ」の巨木です。
枝から大きな乳房状の突起が垂下しており、枝先にも幾つも突起が成長を待つかのように垂れています。
このようなイチョウの樹は見たことがなく驚きますが、地面にはイチョウの実らしきものがたくさん落ちていたのも印象的です。





拝殿に参詣した後、本殿の右の山裾の斜面に回り込むと、鎌倉時代末期作とされる石造板碑はありました。
高さ140cmほどの板碑は花崗岩で造られたもので、竹藪の前にひっそりと祀られているのは墓標を連想させる。



二塔のうちの右塔には舟形輪郭の中に蓮華座に乗る阿弥陀仏が彫られており、下には脇侍である観音菩薩・勢至菩薩が梵字で彫られているといいます。
これまで石造板碑に関心を持って見ていなかったこともありますが、こういった石造板碑を意識的に見た記憶はなく、初めてかと思います。





対する左塔は、風化がひどく見えにくくなっているものの、舟形輪郭の中に納まる半肉彫りの阿弥陀仏は何とか識別出来る状態。
頭部の四角錐状の二条線の部分を比較すると、左塔の方は最初から造りが荒かったようにも思えます。



板碑に横には石室があり、「秀吉の母の石仏」が安置されています。
なぜここに祀られているのか不思議であり、秀吉とは縁もゆかりもなさそうな米原に祀られているのは謎のままです。

石室の扉は閉まっており、さすがに扉を開けるのは不謹慎なため、石仏は見ていませんが、説明板に石仏の写真で確認。
集落の人々は優しげな姿の石仏に“大政所(なか)”の姿を思い浮かべたのかもしれません。





二塔と石室の横には石仏や石塔が置かれてあり、それらも南北朝期のものと推定されています。
石仏はこの場所以外にも周辺部一帯に石仏が多く祀られていたことから、良質な石(花崗岩)の産地であるとともに、信仰の深い地であったことが伺われます。



曲谷に伝わる伝承として「西仏坊」にまつわる話があります。
西仏坊は1129年頃、信州の武士の家に生まれ、興福寺の僧となったといいます。

その後、平清盛への反乱に加わって信州に逃れ、木曽義仲の家臣となり、木曽義仲が戦死した後に追っ手から逃れるために曲谷に滞在したとされます。
その時に曲谷の人に石工の技術を伝え、後の石臼作りの起源になったと伝わります。



石臼作りが盛んだった痕跡は今でも集落の中に作りかけの石臼や廃棄された石臼が数多く残っていることから分かります。
また山中には石切場が何ヶ所か現在も残されているといい、特殊な石の文化を持つ曲谷の歴史が残ります。



米原市のウェブサイトによると、曲谷集落北東一帯には花崗岩床があり、その花崗岩は「粘っこい」ため、粉をひいても石材が崩れず石臼に適しているとあります。
また、稜が鋭く立たないため墓石には向かないとありますが、石仏などには用いられているといいます。

集落の入口付近には「石臼公園」があり、大きな石臼のモニュメントが置かれています。
曲谷の石臼は主に湖北や美濃に拡がったといい、神社仏閣の石灯籠などにも名作があるといいます。



公園の石段にも石臼が使われており、「石臼作りの里」の遺構が残されています。
曲谷の石灰岩は加工時に割ることが多かったそうで、うまく作れなかったものを住居などに利用してきたのかと思います。



石臼段の横には石室に祀られた二尊石仏があり、周辺にも石仏が置かれています。
曲谷の石工は、石灯篭や手水鉢の銘文には「曲谷村」文字を入れ、姓は木曽を名乗っていたといいますら、曲谷石工が西仏坊にまつわる伝承を大事にされていたことが分かります。
興味深い処では西国三十三所の満願結願の寺院「華厳寺」の笠灯篭が曲谷の作だといいますので、満願の暁の参拝時に確認したいと思います。



ところで、「伊吹山文化資料館」には“曲谷の石臼作り”のコーナーがありましたので立ち寄ってみました。
資料館は「伊吹山地とその山麓の自然と文化」をメインテーマとしており、展示室全4室には伊吹山の民俗や自然、縄文から戦国時代に至るまでの出土品など小さいながら充実した資料館です。





伊吹山麓には古墳が幾つかあったといい、資料館の外には「ミミ塚古墳」が移築されています。
滋賀県で一番東の古墳だとそうですが、伊吹山山麓は位置的にも美濃地方の影響が強かったかもしれません。



平安時代の最末期頃に曲谷に滞在して石工の技術を教えたと伝わる西仏坊には、石工の技術者も同行していたと考えられています。
鎌倉・室町期に関東を中心に石造板碑が発達したといいますが、その流れが石臼の里・曲谷にも入り込んできて石造板碑が造られたのでしょう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする