2019年も大小さまざまな美術展が開催されましたが、個人的にはグスタフ・クリムトを中心とした世紀末ウィーンをテーマにした3つの美術展が今年の肝だったように思います。
世紀末ウィーンのアートは絵画だけでなく、建築・ファッション・インテリア・デザイン・音楽などを含めた総合的なものを指し、その中に「ウィーン分離派」の活動があったようです。
年初の京都では「世紀末ウィーンのグラフィック展」、夏から愛知県では「クリムト展」、続いて大阪での「ウィーン・モダン展」。2019年はまさに世紀末ウィーンに染まる一年だった感があります。
大阪国立国際美術館で開催された『ウィーン・モダン-クリムト、シーレ 世紀末への道』は、日本・オーストリア外交樹立150周年を記念して「ウィーン・ミュージアム」の所蔵品が約300点も上陸しての大規模な美術展となりました。
美術展は18世紀のハプスブルク帝国時代の作品を集めた「啓蒙主義時代のウィーン」に始まる。
大きなキャンバスに描かれた古典的な絵に圧倒されるが、興味深いのは「フリーメイソンのロッジ」という懇親会の様子を描いた絵の片隅にモーツアルトの姿があることでしょう。
「ビーダーマイアーの時代」ではナポレオン戦争終結後から1848革命が起こるまでの期間。
「リンク通りとウィーン」では1916年までのフランツ・ヨーゼフ1世の時代を描く。
ここまでがタイトルにもあるようにウィーン「世紀末への道」として歴史的背景や変遷を描いたもので、次の「1900年-世紀末ウィーン-」でクリムトの作品が展示される。
ギリシャ神話に登場する《パラス・アテナ》は、装飾性豊かな金色の甲冑を身に付けて、威厳に満ちた姿で立ち、暗い背景には人物や梟が描かれている。
右手の上には「ヌーダ・ヴェリタス」が描かれ、胸の辺りにはメデューサが舌を出して嘲笑するかのように笑っている。
ウィーンでは1873年に「ウィーン万国博覧会」が開催されており、日本はこの万博が初めての公式参加だったといいます。
日本からは岩倉使節団(岩倉具視・木戸孝允・大久保利通・伊藤博文など)も見学に訪れたといい、メンバーの顔ぶれから時代が想像出来ますね。
この万博によってウィーンでもジャポニズムが注目されるようになったといい、クリムトがジャポニズムの影響を受けたことが伺われるのが《愛》という絵。
中央には愛し合う男女の姿が描かれているが、後方には心霊写真のように子供・女性・老婆・死者が描かれ、人の人生を暗示するような絵になっている。
キャンバスの1/3を占める両端には薔薇の花が左右非対称に描かれているのは如何にも日本的な構図に見えます。
美術館は撮影禁止ですが、驚いたのは今回の美術展の象徴的な作品といえる《エミーリエ・フレーゲの肖像》が撮影OKだったこと。
平日に来場したのでさほど人は多くはなかったものの、絵の前にはスマホを持った人が何人も順番待ちをしている。
土日祭日なんかだと凄い行列になっているのでしょうね。
クリムトは官能的な女性を数多く描いており、十数名の女性と愛人関係にあって婚外子は少なくとも14名いるといいますが、唯一心安らげた女性がエミーリエ・フレーゲだったといわれています。
エミーリエはモード・サロンの経営者でもありファッションデザイナーでもある自立した女性だったといい、颯爽とした女史の印象がある人に見えます。
モードの変化が分かる例として《黄色いドレスの女(マクシミリアン・クルツヴァイル)》の絵が展示されています。
当時主流だったと思われるお腹をコルセットで目一杯締めつけたドレスから、ゆったりした服へと流行が変わってきたのが分かります。
エゴレ・シーレは“二十代で早世した天才画家”とされ、28歳の若さでスペイン風邪で亡くなったといいます。
15歳で父親を梅毒で亡くしたシーレは、叔父に引き取られ16歳でウィーン工芸学校へ入学し、更にウィーン美術アカデミー(アドルフ・ヒットラーは3度受験して不合格)へ進学。
その後、17歳のヌードモデルの少女と田舎町で暮らすものの、閉鎖的な田舎町から追い出されてウィーンへ舞い戻るが、少女をアトリエに引き入れたりしてヌード画を描く癖は治らなかったといいます。
挙句は14歳の少女の告発によって逮捕されて禁固刑を受けてしまい、その後に裕福な家庭の娘と結婚するが、選んだ理由は“社会的に許される人間を選んだ”と思考回路がおかしい。
シーレは結婚した相手と永年の同棲相手の両方を繋ぎとめたかったものの、同棲相手は当然のごとくシーレの元を去ったといいます。
シーレは結婚した後、結婚相手の姉とも関係があったといいますから、クリムトもシーレも女性関係はかなりなものだったようですね。
今回の美術展にはシーレ作品が11点展示されており、その独特な画風が最も際立っているのは《自画像》でしょう。
自画像の後方には人の横顔をした陶器製のポットがありますが、明暗・陰陽・表裏・光と影・真偽の両面のシーレが想像させられます。
作品は他にもゴッホの影響を受けたかに思われる《ひまわり》や《ノイレングバッハの画家の部屋》などもシーレのゴッホ好きが分かって興味深い。
会場となった大阪国立国際美術館は元は日本万国博覧会(大阪万博)の「万国博美術館」を中之島に移転したものだといいます。
設計はあべのハルカスなども手がけている建築家のシーザー・ペリーで、地下2・3階が展示室となっていて、現代建築の特徴のあるビルが並ぶ中之島でも異彩を放っていました。
世紀末ウィーンのアートは絵画だけでなく、建築・ファッション・インテリア・デザイン・音楽などを含めた総合的なものを指し、その中に「ウィーン分離派」の活動があったようです。
年初の京都では「世紀末ウィーンのグラフィック展」、夏から愛知県では「クリムト展」、続いて大阪での「ウィーン・モダン展」。2019年はまさに世紀末ウィーンに染まる一年だった感があります。
大阪国立国際美術館で開催された『ウィーン・モダン-クリムト、シーレ 世紀末への道』は、日本・オーストリア外交樹立150周年を記念して「ウィーン・ミュージアム」の所蔵品が約300点も上陸しての大規模な美術展となりました。
美術展は18世紀のハプスブルク帝国時代の作品を集めた「啓蒙主義時代のウィーン」に始まる。
大きなキャンバスに描かれた古典的な絵に圧倒されるが、興味深いのは「フリーメイソンのロッジ」という懇親会の様子を描いた絵の片隅にモーツアルトの姿があることでしょう。
「ビーダーマイアーの時代」ではナポレオン戦争終結後から1848革命が起こるまでの期間。
「リンク通りとウィーン」では1916年までのフランツ・ヨーゼフ1世の時代を描く。
ここまでがタイトルにもあるようにウィーン「世紀末への道」として歴史的背景や変遷を描いたもので、次の「1900年-世紀末ウィーン-」でクリムトの作品が展示される。
ギリシャ神話に登場する《パラス・アテナ》は、装飾性豊かな金色の甲冑を身に付けて、威厳に満ちた姿で立ち、暗い背景には人物や梟が描かれている。
右手の上には「ヌーダ・ヴェリタス」が描かれ、胸の辺りにはメデューサが舌を出して嘲笑するかのように笑っている。
ウィーンでは1873年に「ウィーン万国博覧会」が開催されており、日本はこの万博が初めての公式参加だったといいます。
日本からは岩倉使節団(岩倉具視・木戸孝允・大久保利通・伊藤博文など)も見学に訪れたといい、メンバーの顔ぶれから時代が想像出来ますね。
この万博によってウィーンでもジャポニズムが注目されるようになったといい、クリムトがジャポニズムの影響を受けたことが伺われるのが《愛》という絵。
中央には愛し合う男女の姿が描かれているが、後方には心霊写真のように子供・女性・老婆・死者が描かれ、人の人生を暗示するような絵になっている。
キャンバスの1/3を占める両端には薔薇の花が左右非対称に描かれているのは如何にも日本的な構図に見えます。
美術館は撮影禁止ですが、驚いたのは今回の美術展の象徴的な作品といえる《エミーリエ・フレーゲの肖像》が撮影OKだったこと。
平日に来場したのでさほど人は多くはなかったものの、絵の前にはスマホを持った人が何人も順番待ちをしている。
土日祭日なんかだと凄い行列になっているのでしょうね。
クリムトは官能的な女性を数多く描いており、十数名の女性と愛人関係にあって婚外子は少なくとも14名いるといいますが、唯一心安らげた女性がエミーリエ・フレーゲだったといわれています。
エミーリエはモード・サロンの経営者でもありファッションデザイナーでもある自立した女性だったといい、颯爽とした女史の印象がある人に見えます。
モードの変化が分かる例として《黄色いドレスの女(マクシミリアン・クルツヴァイル)》の絵が展示されています。
当時主流だったと思われるお腹をコルセットで目一杯締めつけたドレスから、ゆったりした服へと流行が変わってきたのが分かります。
エゴレ・シーレは“二十代で早世した天才画家”とされ、28歳の若さでスペイン風邪で亡くなったといいます。
15歳で父親を梅毒で亡くしたシーレは、叔父に引き取られ16歳でウィーン工芸学校へ入学し、更にウィーン美術アカデミー(アドルフ・ヒットラーは3度受験して不合格)へ進学。
その後、17歳のヌードモデルの少女と田舎町で暮らすものの、閉鎖的な田舎町から追い出されてウィーンへ舞い戻るが、少女をアトリエに引き入れたりしてヌード画を描く癖は治らなかったといいます。
挙句は14歳の少女の告発によって逮捕されて禁固刑を受けてしまい、その後に裕福な家庭の娘と結婚するが、選んだ理由は“社会的に許される人間を選んだ”と思考回路がおかしい。
シーレは結婚した相手と永年の同棲相手の両方を繋ぎとめたかったものの、同棲相手は当然のごとくシーレの元を去ったといいます。
シーレは結婚した後、結婚相手の姉とも関係があったといいますから、クリムトもシーレも女性関係はかなりなものだったようですね。
今回の美術展にはシーレ作品が11点展示されており、その独特な画風が最も際立っているのは《自画像》でしょう。
自画像の後方には人の横顔をした陶器製のポットがありますが、明暗・陰陽・表裏・光と影・真偽の両面のシーレが想像させられます。
作品は他にもゴッホの影響を受けたかに思われる《ひまわり》や《ノイレングバッハの画家の部屋》などもシーレのゴッホ好きが分かって興味深い。
会場となった大阪国立国際美術館は元は日本万国博覧会(大阪万博)の「万国博美術館」を中之島に移転したものだといいます。
設計はあべのハルカスなども手がけている建築家のシーザー・ペリーで、地下2・3階が展示室となっていて、現代建築の特徴のあるビルが並ぶ中之島でも異彩を放っていました。