「深坂古道」は古来より「深坂越え」と呼ばれ、越前敦賀と近江塩津を結ぶ主要道路だったといます。
万葉の歌人・笠金村(越前守)や平安時代の歌人・紫式部が父である越後守・藤原為時に連れられて通った道であると伝わります。
「深坂越え」は深坂峠(標高370m)を越える難所であったものの、塩津~敦賀の最短距離であり、敦賀に陸揚げされた海の幸や塩や米などを畿内へと運ぶ街道だったといいます。
塩津街道は「塩の道」とも呼ばれており、日本海に面する越前の玄関口として街道は大いににぎわったようです。
深坂古道は塩津街道の最難関な峠であったことから、平清盛は嫡男・重盛に琵琶湖と敦賀間の運河の開削を命じたといます。
しかし、山には巨岩が多く工事は難行し、大岩を割ろうとした者が突然腹痛を起こし、その岩を掘り起こすと地蔵様が出てきたので工事を中断したという伝承があります。
そのため「深坂地蔵」には別名として「堀止め地蔵」という呼び名があるといいます。
古道は滋賀県側から峠を越えて福井県の疋田(JR新疋田)までつながってはいるが、滋賀県側から入って「深坂地蔵」まで行って折り返すことにする。
古道というと熊野古道を連想するが、深坂古道を歩く人は他に誰も見かけず、やや不安を感じながら道を進む。
道は手が入っているため、雑草などに悩まされることはありませんでしたが、熊や獣が出そうな雰囲気がある。
水路と並行に道があり、地面に山からの水で湿気っている場所があるので蛇とかいたら怖いなぁと足元を確認しながらの道中。
深坂古道南口より300mほど進んだ所には「深坂問屋跡」の石垣が見られる。
かつて敦賀からの荷物は馬に乗せて運んだといい、峠を越えると別の業者の馬に「馬継ぎ」したといいます。
「問屋跡」はその際に使われた荷受問屋の跡地で、積み替えた荷物は塩津港に運ばれ、舟で琵琶湖の各港へ運ばれたそうです。
問屋跡を越え、地蔵堂へは約600m。
県境となる深坂峠までは緩やかな坂道なので、歩くのはさほど苦にはならないが、ひとけがないのに風があったため、山がざわついているのが気になる。
途中に道の真ん中に石で塚のようなものが作られていて不思議に感じる。
明らかに人が積んだもので、苔などが見られないため、最近になっても積んでいるように見えます。
反対側には巨岩が地面に埋まっており、その岩の後方に石が積まれている。
お地蔵さんに見立てた岩が祀られているが、賽の河原を連想すると同時に巨岩に対する信仰めいたものを感じてしまいます。
お地蔵さん(岩)の後ろには木彫りの仏が奉納されていて、賽の河原で鬼から子供たちを守る地蔵菩薩の宗教観が感じ取れます。
「深坂地蔵」は子供の守り神とされているということから、お地蔵さんにまつわるものが各所に見られます。
更に道を進んだ先に「深坂地蔵」の御堂がありましたが、こんな山の中にあって実によく整備されています。
地域の方の尽力によるものでしょうけど、それだけこのお地蔵さんが大事にされているということでしょう。
参道の横には山から流れ出す水を使った手水があります。
尺が置いてあるのですが、下に流れ出た水が溜まっており、手は届かずで水には触れられずでした。
御堂(地蔵堂)はそれほど古いものではなさそうで、「深坂地蔵尊」の扁額が掛けられている。
閉まっていたので地蔵尊を拝めないかと思いつつ、障子に手を掛けると簡単に開く。
自由に拝観出来るようなのでありがたく堂内に上がらせていただきます。
深坂地蔵は街道を行く人が道中の安全を祈る時に、当時貴重品だった塩を供えたことから「塩かけ地蔵」の呼び名があるといいます。
以前は塩を石仏にかけていたようですが、現在は塩かけは禁止されているようです。
“仏像や石仏は実物を見ないと分らない”と個人的には思っており、深坂地蔵はもっと小さな石仏かと想像していたのですが、その大きさに驚く。
須弥壇に祀られているということもあるとはいえ、高さ約160cmで顔は35cm、岩の厚みも厚く、浮き彫りの厚さもかなり浮き出ている。
お地蔵さんは前掛けで包まれているので躰は見えないものの、右手に持つ錫杖や左手の部分ははっきりと残っている模様。
お顔は劣化が激しく、その表情は伺え知れない。
地蔵堂の周囲には涎掛けをした石が数多く並んでおり、石を地蔵に見立てて奉納・信仰していることが見て取れる。
小さな石に涎掛けを着せているものが大半であるが、幾つか巨岩に涎掛けを着せているものもある。
山の各所にも巨岩が多く見られたことから、平重盛が運河の工事を中断せざるを得なかったことが理解出来る気がします。
それと共に、この地の方や古道を通る人に「石」に対する畏怖する心があったのではないか?とも思います。
地蔵堂より福井県側は傾斜のきつい道となっており、それ以上進むことはありませんでしたが、この先には「笠金村の歌碑」や「紫式部の歌碑」があるといいます。
興味深いのは、古道の各所に見られる“大岩があると必ずと言っていいほど小石が積まれていること。”でしょうか。
この小石は、深坂地蔵にお参りに来られた方々が積まれているのかと思われます。
古道を戻って古道の南口近くまで来ると、周囲を観察する余裕が出てくる。
キンモンガやウラギンヒョウモン?の姿を見ることも出来、自然豊かな森の良さに触れる。
山を下ってこの辺りまで戻ると、周辺は山と湿地のみ。
いい景色だと安堵して歩いていると、足に違和感。
なんと蛇を踏んでしまった!
思わず悲鳴を上げたが、悲鳴が聞こえた人がいたとしても1㌔は離れている。
いきなり踏まれた蛇も恐怖だったでしょうけど、知らずに蛇を踏んだこっちも恐怖です。足元をしっかり見なさいというメッセージかな。
「深坂古道」は、秀吉によって高低差の少ない「新道野越え」の新道が開かれると、難所ゆえに衰退していったといいます。
とはいえ、現在も残る古道からは、いにしえの時代の匂いが漂い、かつてのにぎわいを想像してみることの楽しさが味わえます。
万葉の歌人・笠金村(越前守)や平安時代の歌人・紫式部が父である越後守・藤原為時に連れられて通った道であると伝わります。
「深坂越え」は深坂峠(標高370m)を越える難所であったものの、塩津~敦賀の最短距離であり、敦賀に陸揚げされた海の幸や塩や米などを畿内へと運ぶ街道だったといいます。
塩津街道は「塩の道」とも呼ばれており、日本海に面する越前の玄関口として街道は大いににぎわったようです。
深坂古道は塩津街道の最難関な峠であったことから、平清盛は嫡男・重盛に琵琶湖と敦賀間の運河の開削を命じたといます。
しかし、山には巨岩が多く工事は難行し、大岩を割ろうとした者が突然腹痛を起こし、その岩を掘り起こすと地蔵様が出てきたので工事を中断したという伝承があります。
そのため「深坂地蔵」には別名として「堀止め地蔵」という呼び名があるといいます。
古道は滋賀県側から峠を越えて福井県の疋田(JR新疋田)までつながってはいるが、滋賀県側から入って「深坂地蔵」まで行って折り返すことにする。
古道というと熊野古道を連想するが、深坂古道を歩く人は他に誰も見かけず、やや不安を感じながら道を進む。
道は手が入っているため、雑草などに悩まされることはありませんでしたが、熊や獣が出そうな雰囲気がある。
水路と並行に道があり、地面に山からの水で湿気っている場所があるので蛇とかいたら怖いなぁと足元を確認しながらの道中。
深坂古道南口より300mほど進んだ所には「深坂問屋跡」の石垣が見られる。
かつて敦賀からの荷物は馬に乗せて運んだといい、峠を越えると別の業者の馬に「馬継ぎ」したといいます。
「問屋跡」はその際に使われた荷受問屋の跡地で、積み替えた荷物は塩津港に運ばれ、舟で琵琶湖の各港へ運ばれたそうです。
問屋跡を越え、地蔵堂へは約600m。
県境となる深坂峠までは緩やかな坂道なので、歩くのはさほど苦にはならないが、ひとけがないのに風があったため、山がざわついているのが気になる。
途中に道の真ん中に石で塚のようなものが作られていて不思議に感じる。
明らかに人が積んだもので、苔などが見られないため、最近になっても積んでいるように見えます。
反対側には巨岩が地面に埋まっており、その岩の後方に石が積まれている。
お地蔵さんに見立てた岩が祀られているが、賽の河原を連想すると同時に巨岩に対する信仰めいたものを感じてしまいます。
お地蔵さん(岩)の後ろには木彫りの仏が奉納されていて、賽の河原で鬼から子供たちを守る地蔵菩薩の宗教観が感じ取れます。
「深坂地蔵」は子供の守り神とされているということから、お地蔵さんにまつわるものが各所に見られます。
更に道を進んだ先に「深坂地蔵」の御堂がありましたが、こんな山の中にあって実によく整備されています。
地域の方の尽力によるものでしょうけど、それだけこのお地蔵さんが大事にされているということでしょう。
参道の横には山から流れ出す水を使った手水があります。
尺が置いてあるのですが、下に流れ出た水が溜まっており、手は届かずで水には触れられずでした。
御堂(地蔵堂)はそれほど古いものではなさそうで、「深坂地蔵尊」の扁額が掛けられている。
閉まっていたので地蔵尊を拝めないかと思いつつ、障子に手を掛けると簡単に開く。
自由に拝観出来るようなのでありがたく堂内に上がらせていただきます。
深坂地蔵は街道を行く人が道中の安全を祈る時に、当時貴重品だった塩を供えたことから「塩かけ地蔵」の呼び名があるといいます。
以前は塩を石仏にかけていたようですが、現在は塩かけは禁止されているようです。
“仏像や石仏は実物を見ないと分らない”と個人的には思っており、深坂地蔵はもっと小さな石仏かと想像していたのですが、その大きさに驚く。
須弥壇に祀られているということもあるとはいえ、高さ約160cmで顔は35cm、岩の厚みも厚く、浮き彫りの厚さもかなり浮き出ている。
お地蔵さんは前掛けで包まれているので躰は見えないものの、右手に持つ錫杖や左手の部分ははっきりと残っている模様。
お顔は劣化が激しく、その表情は伺え知れない。
地蔵堂の周囲には涎掛けをした石が数多く並んでおり、石を地蔵に見立てて奉納・信仰していることが見て取れる。
小さな石に涎掛けを着せているものが大半であるが、幾つか巨岩に涎掛けを着せているものもある。
山の各所にも巨岩が多く見られたことから、平重盛が運河の工事を中断せざるを得なかったことが理解出来る気がします。
それと共に、この地の方や古道を通る人に「石」に対する畏怖する心があったのではないか?とも思います。
地蔵堂より福井県側は傾斜のきつい道となっており、それ以上進むことはありませんでしたが、この先には「笠金村の歌碑」や「紫式部の歌碑」があるといいます。
興味深いのは、古道の各所に見られる“大岩があると必ずと言っていいほど小石が積まれていること。”でしょうか。
この小石は、深坂地蔵にお参りに来られた方々が積まれているのかと思われます。
古道を戻って古道の南口近くまで来ると、周囲を観察する余裕が出てくる。
キンモンガやウラギンヒョウモン?の姿を見ることも出来、自然豊かな森の良さに触れる。
山を下ってこの辺りまで戻ると、周辺は山と湿地のみ。
いい景色だと安堵して歩いていると、足に違和感。
なんと蛇を踏んでしまった!
思わず悲鳴を上げたが、悲鳴が聞こえた人がいたとしても1㌔は離れている。
いきなり踏まれた蛇も恐怖だったでしょうけど、知らずに蛇を踏んだこっちも恐怖です。足元をしっかり見なさいというメッセージかな。
「深坂古道」は、秀吉によって高低差の少ない「新道野越え」の新道が開かれると、難所ゆえに衰退していったといいます。
とはいえ、現在も残る古道からは、いにしえの時代の匂いが漂い、かつてのにぎわいを想像してみることの楽しさが味わえます。