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「白鳥と古代史(芦野泉)」前編~東近江市の古代白鳥の足跡を辿る~

2021-10-10 18:30:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県各所の最奥の集落を巡ることが多いのですが、地名に似通った字が使われていたり、同じ地名の場所が同じような地形のところにあるのを不思議に感じていました。
例えば、君ヶ畑・大君ヶ畑・甲津畑・今畑・畑などの「○○畑」は、山中の奥地のような集落の地名となっており、山に向かって最奥の湖東の集落には甲津原・甲頭倉・甲津畑など「甲津○○」の地名があります。
甲賀と名の付く集落も米原市と甲賀市にあり、甲が付く地名は滋賀県に数多く数えられます。

この甲の付く地名に関して、「白鳥と古代史(芦野泉)」という本を紹介してくださった方がおられて、さっそく読んでみたところ白鳥の渡りのルートと地名との関係を始め、数々の謎を解明する内容に驚くばかりでした。
作者の芦野泉さんは、古代史家であると共に白鳥研究家で、古代白鳥を主要テーマとして古代史研究をされている方と作者紹介されている方です。



古代白鳥と地名のつながりは、鳴き声などの擬音語に由来するといい、古代白鳥と人間(初期農耕)との関係から幾つかの地名の由来となっており、例えば「甲」は白鳥の鳴き声「コウ」に文字を当てはめていったものとあります。
さらに興味深いのは、白鳥の渡りのルート(北北西24度)線上に古代白鳥に由来する地名や神社があり、東北地方を除く本州・四国・九州にその線が確認できるのだと考察されています。
尚、この場合の「白鳥(シラトリ)」は、ハクチョウ・コウノトリ・ツル、場合によってはシラサギを含めた総称とされています。

グーグルマップで確認したところ、東近江市には甲津畑集落→和南→多度神社が北北西の線上にあり、谷あいの地形から広い田園地帯に出た辺りには「白鳥神社」が4社確認できます。(他に若宮白鳥、白鳥若宮もあり)
北北西の方向で琵琶湖を目指すと琵琶湖近くの能登川町との境辺りにも「白鳥神社」があり、滋賀県内ではこの一帯でしか白鳥神社は検索でヒットしません。



古代白鳥と初期農耕との関係は、高地湿地で白鳥の糞が肥料として効果が高かったとされ、山に挟まれた谷あいの甲津畑は高度が高いと想像されますので、該当しているように思えます。
また、甲津畑をグーグルマップの航空写真で見ると、白鳥の頭のような地形(甲頭)にも見えます。これは伊吹山麓の甲津原にも同様のことがいえますので地形の影響もあるのかもしれません。


(甲津畑集落)

甲津畑の向こうは鈴鹿山系になるドンツキの場所に甲津畑集落はあり、田圃は山が迫っている場所に棚田が作られています。
シラサギが一羽いましたが、棚田に白鳥(シロトリ)が多数飛来して、糞によって田圃を豊かにしていたのかと想像を膨らませてみます。


(甲津畑集落の棚田)


(棚田のシラサギ)

甲津畑集落と隣接する和南は、棚田の多い甲津畑よりも田圃が少し広くなったような印象を受ける場所です。
「和南」の語源は、わな網から来ているとあり、鳥がよく集まり、網に気付かれにくく、鳥が掛かった時に人が容易に近づける場所を表す地名と書かれてあります。
他にも古代からの長い年月とともに字や読みが変わった地名として「川並・和野・難波」などが紹介されています。


(和南集落の棚田、手前は和南川)


(和南集落の田圃)

和南集落の中へ入っていくと「多度神社」が祀られており、「多度(タド)」も田鶴(タヅ)」からの変形の可能性が考えられるとあり、白鳥に由来する地名の系統とされています。
初期農耕の時代の収穫量は現在とは比較にならないようなごく僅かだったと考えられているといい、冬の季節に飛来して田圃に残す白鳥の糞は肥料として有効だったとあります。

田圃に恵みを与えてくれる白鳥をありがたいものとして祀ったのも当然のことなのかもしれません。
本では糞の肥料効果についても分析がされていますが、逆に白鳥による食害によって追い出さざるを得なかった歴史や食鳥の歴史についても語られています。



多度神社の御祭神は、製鉄・鍛冶の神とされる「天之御影神」で、伊勢国多度大社より勧請して氏神として祀るとされます。
和南集落に製鉄・鍛冶の神を祀る意味は分かりませんが、後方の鈴鹿山脈には複数の鉱山があったとされますから、鉱山と和南に何か関係があったのかもしれません。



本殿の横の道を進むと「多度神社 奥宮」の社が祀られています。
あまりにも距離が近いので、もしかすると奥宮はかつて山の上にあったのを遷移したことも考えられます。



奥宮の境内には幾つかの遥拝所があり、「皇大神宮・多賀大社・愛宕神社・桃山御陵・神武天皇」と書かれた柱が立ちます。
尚、和南城跡は奥の獣害防止柵の奥から登ることになり、山中には城址跡が残っているようです。
「和南城」は南北朝期に築城され、1563年の和南山合戦(近江小倉氏が信長の千種越えに協力したため六角義賢に攻め滅ぼされた)で焼失したとされます。



白鳥の首のような谷あいの地域から平野の広がる山上集落へ出ると、蒲生野へと続く広い田園地帯に出ます。
ここから先には日野町との境の山に沿って「白鳥神社」が4社並び、北方向には「若宮白鳥神社」や「白鳥若宮神社」が地図上に確認できます。
滋賀県の白鳥神社は、東近江市の南東のこの一帯と東近江市の北西にあたる琵琶湖近くの1社しか滋賀県内には白鳥神社は存在しないようです。

ところで、広い田園地帯に出て「白鳥神社」を目指して進んで行った時に、野神さんの碑を見つけました。
野神信仰は滋賀県の湖北地方に多いのですが、東近江市や日野町などの湖東や湖南地方にもある五穀豊穣などを祈念する民俗信仰です。



さて、この後に「白鳥神社」5社に参拝しましたが、あまりにも話が長くなりますので、ここで一旦話を打ち切り前編・後編の2回に分割します。
「白鳥神社」は祠がある程度の神社かと思いきや、立派な神社揃いで勧請縄まで見ることができ、白鳥による豊かな実りに感謝してきた先人の気持ちの名残りを感じることが出来ました。


(過去撮影の写真)

白鳥はどんなルートで渡っていくのか、ガンカモ類重要生息地ネットワーク支援・鳥類学研究者グループの「米子水鳥公園におけるコハクチョウの発信器による調査」資料を確認しました。
資料によると、白鳥の渡りのルートは、列島内の移動・日本列島沿いの移動と共に日本海を渡る渡りのルートが確認されています。
古代白鳥が列島を横断して日本海に向かっていく際に北北西へ向かった可能性は充分にありそうです。...後編に続く。



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