「白鳥と古代史(芦野泉)」によると、古代は「白鳥(シラトリ)」のことをハクチョウ・コウノトリ・ツル、場合によってはシラサギを含めた総称としており、白鳥に関係する地名が全国的に数多く残ると書かれています。
また、その地名を線で結ぶと北北西24度の線となる場所が多く、この方向は日本海を横断して渡りを行う白鳥のルートを示していると考察されています。
前回は東近江市の最奥の甲津畑集落から和南集落へ下り、平野部に祀られる5つの「白鳥神社」を目指すところまで来ました。
甲津畑・和南・多度神社(和南)は全て白鳥由来の地名であり、そのルートは東近江市南東にある「白鳥神社」を経て、琵琶湖近くにある「白鳥神社」まで北北西の1本の線上にあるといえます。
<池之脇町の白鳥神社>
東近江市の南東部(日野町との境辺り)の一帯には「白鳥神社」が4社祀られ、他にも近隣に「若宮白鳥神社」「白鳥若宮神社」が祀られている地域です。
滋賀県では「白鳥神社」は東近江市にしか確認できないという特異な傾向があり、まず最初にもっとも東にある池之脇町の「白鳥神社」から参拝します。
あっ!と驚いたのは神社の鳥居の先に勧請縄が掛けられていたことです。
勧請縄は“集落の入口や鎮守の参道に大縄を掛け渡し、魔除けとして集落を守り、人々の安全や五穀豊穣を祈願する年頭行事”とされていて年初に掛けられるものです。
10月の中旬のこの時期に勧請縄があるとは思ってもいず、これは勧請縄の行事が今も色濃く残っている東近江市ならではということになります。
今年は年初から2ヶ月くらいかけて滋賀県の勧請縄を見て歩いたのですが、それは全県のごく一部でしかなく、まだ見たことのない勧請縄が県内には数多くあります。
白鳥のルートを追いかけて参拝した「白鳥神社」でまさか勧請縄が見れるとは!
トリクグラズはさすがに枯葉になってしまっていますが、祈祷札は充分に読み取れます。
「天下泰平・五穀豊穣・息災延寿・交通安全」。祈祷札は湖東地方で多くみられる印象があります。
本殿へは石段を登ってお参りします。
御祭神は日本武尊。本堂は山麓にひっそりと祀られています。
この辺りの田園地帯は、広々として見晴らしが良い。
なんとも長閑な田園風景が続きます。
<高木町の白鳥神社>
次に参拝した「白鳥神社」は高木町に祀られた白鳥神社です。
この白鳥神社にも勧請縄が掛けられており、トリクグラズもすっかり茶色に変わってはいるものの、形が確認できる。
高木町の白鳥神社の御祭神も池之脇町の白鳥神社と同様に「日本武尊」で、“社伝によれば古日本武尊此地に薨去あり、依て当社に祀る”と伝わります。
伊吹山に日本武尊(ヤマトタケル)が山の神と戦って、傷ついて亡くなった後にハクチョウに姿を変えて飛び去ったという伝説があり、ヤマトタケルとハクチョウとの関係が気になります。
「白鳥と古代史」では“伊吹山で傷ついたヤマトタケルがハクチョウに姿を変えた伝説”についても解明されており、“余呉湖の羽衣伝説(ハクチョウ)”についても考察がされています。
高木町の白鳥神社の拝殿・本殿ともに立派な造りとなっていて、歴史を感じさせる建物になっています。
滋賀県の古くからの農村部や山麓の集落には立派な神社が多く、信仰の深さを感じることが多々あります。
高木町の田園も片側は山になっていますが、広々とした田圃が広がります。
古代の湿田とは姿を変えているはずとはいえ、白鳥が飛来してきて越冬しても不思議ではない感じがしますね。
<市原野町の白鳥神社>
続いて3社目となる白鳥神社は、市原野町にお祀りされています。
市原野町の白鳥神社にも勧請縄が掛けられており、掛けられた主縄は太く、大きな頭は両端に付けられている力強い勧請縄です。
すでに取り外されていましたが、この神社の勧請縄には小縄は下げられず、蛇を形取ったような細い縄を七曲り・五曲がり・三曲がりにして割竹に串刺しして御幣のように3本立てるそうです。
最初、4社の白鳥神社は小さな祠のようなものが祀られているだけかと思っていたのですが、想像は外れてどの白鳥神社も立派な社殿なので驚きます。
それだけ東近江市(旧永源寺地域)は信仰の篤い地域だったことが伺われ、今も守り続けられていることに感銘致します。
<石谷町の白鳥神社>
さて、東近江市東南部の「白鳥神社」は石谷町の白鳥神社が最後になります。
この神社には勧請縄はありませんでしたが、年初には両端に頭の付いた勧請縄が掛けられ、中央にはトリクグラズが吊るされるそうです。
この石谷町の白鳥神社も立派な神社となっていて参道の両脇の樹木の奥に見える拝殿と奥にある本殿からは、落ち着いた佇まいが感じられます。
石谷町の白鳥神社も池之脇町や高木町の白鳥神社と同様に御祭神は「日本武尊」を祀ります。
ここまで参拝した4社の白鳥神社の中で、石谷町の白鳥神社だけが平地のど真ん中に祀られていました。
日野町側の山の下には棚田も見えますが、残りの3方向は蒲生野の平野が広がる立地です。
この旧永源寺エリアの白鳥神社から琵琶湖近くにある種町「白鳥神社」までは20キロ程度の距離があります。
愛知川を中流域から下流域に向かうイメージで、道中の左方向には太郎坊宮のある赤神山や安土城のあった安土山がある位置関係です。
<種町の白鳥神社>
種町「白鳥神社」は、天平時代に行基が勧請したと伝わる寺院で、この白鳥神社でも御祭神に「日本武尊」を祀ります。
種町の平野部は琵琶湖近くとはいえ少し距離がありますが、内湖の多かった湖東地方からすると、ここより琵琶湖寄りは内湖になっていた可能性もあります。
神社は武家の崇高が厚かったといい、社紋の「丸に2つ引」は足利将軍家より奉られたものと伝わりますが、明治28年に村中に大火があり、類焼したが同33年10月再建したとされる社殿です。
境内社は「日吉神社・野神神社・稲荷神社」の3社で、境内社と本殿の間には奉納されたツルの像が祀られている。
「白鳥神社」にツルの像を祀るのは、神社名や縁起物の意味合いもあると思いますが、白鳥(シラトリ)の古代史を感じてしまうのは自分だけでしょうか。
種町の白鳥神社には少し離れた場所に奥宮址が2カ所あり、畑の一角に石標のみが残る場所と、石碑と石標が残る広い場所がありました。
そこに置かれた石碑には「丸に2つ引」の社紋が彫られた石碑があり、これが足利将軍家より奉られたという社紋なのでしょう。
「白鳥と古代史」を巡る東近江の短い旅はこれで終わりです。
この冬に飛来してくる白鳥(シラトリ)への想いも新たに、新鮮な出会いとなりそうです。
(過去撮影の写真)
また、その地名を線で結ぶと北北西24度の線となる場所が多く、この方向は日本海を横断して渡りを行う白鳥のルートを示していると考察されています。
前回は東近江市の最奥の甲津畑集落から和南集落へ下り、平野部に祀られる5つの「白鳥神社」を目指すところまで来ました。
甲津畑・和南・多度神社(和南)は全て白鳥由来の地名であり、そのルートは東近江市南東にある「白鳥神社」を経て、琵琶湖近くにある「白鳥神社」まで北北西の1本の線上にあるといえます。
<池之脇町の白鳥神社>
東近江市の南東部(日野町との境辺り)の一帯には「白鳥神社」が4社祀られ、他にも近隣に「若宮白鳥神社」「白鳥若宮神社」が祀られている地域です。
滋賀県では「白鳥神社」は東近江市にしか確認できないという特異な傾向があり、まず最初にもっとも東にある池之脇町の「白鳥神社」から参拝します。
あっ!と驚いたのは神社の鳥居の先に勧請縄が掛けられていたことです。
勧請縄は“集落の入口や鎮守の参道に大縄を掛け渡し、魔除けとして集落を守り、人々の安全や五穀豊穣を祈願する年頭行事”とされていて年初に掛けられるものです。
10月の中旬のこの時期に勧請縄があるとは思ってもいず、これは勧請縄の行事が今も色濃く残っている東近江市ならではということになります。
今年は年初から2ヶ月くらいかけて滋賀県の勧請縄を見て歩いたのですが、それは全県のごく一部でしかなく、まだ見たことのない勧請縄が県内には数多くあります。
白鳥のルートを追いかけて参拝した「白鳥神社」でまさか勧請縄が見れるとは!
トリクグラズはさすがに枯葉になってしまっていますが、祈祷札は充分に読み取れます。
「天下泰平・五穀豊穣・息災延寿・交通安全」。祈祷札は湖東地方で多くみられる印象があります。
本殿へは石段を登ってお参りします。
御祭神は日本武尊。本堂は山麓にひっそりと祀られています。
この辺りの田園地帯は、広々として見晴らしが良い。
なんとも長閑な田園風景が続きます。
<高木町の白鳥神社>
次に参拝した「白鳥神社」は高木町に祀られた白鳥神社です。
この白鳥神社にも勧請縄が掛けられており、トリクグラズもすっかり茶色に変わってはいるものの、形が確認できる。
高木町の白鳥神社の御祭神も池之脇町の白鳥神社と同様に「日本武尊」で、“社伝によれば古日本武尊此地に薨去あり、依て当社に祀る”と伝わります。
伊吹山に日本武尊(ヤマトタケル)が山の神と戦って、傷ついて亡くなった後にハクチョウに姿を変えて飛び去ったという伝説があり、ヤマトタケルとハクチョウとの関係が気になります。
「白鳥と古代史」では“伊吹山で傷ついたヤマトタケルがハクチョウに姿を変えた伝説”についても解明されており、“余呉湖の羽衣伝説(ハクチョウ)”についても考察がされています。
高木町の白鳥神社の拝殿・本殿ともに立派な造りとなっていて、歴史を感じさせる建物になっています。
滋賀県の古くからの農村部や山麓の集落には立派な神社が多く、信仰の深さを感じることが多々あります。
高木町の田園も片側は山になっていますが、広々とした田圃が広がります。
古代の湿田とは姿を変えているはずとはいえ、白鳥が飛来してきて越冬しても不思議ではない感じがしますね。
<市原野町の白鳥神社>
続いて3社目となる白鳥神社は、市原野町にお祀りされています。
市原野町の白鳥神社にも勧請縄が掛けられており、掛けられた主縄は太く、大きな頭は両端に付けられている力強い勧請縄です。
すでに取り外されていましたが、この神社の勧請縄には小縄は下げられず、蛇を形取ったような細い縄を七曲り・五曲がり・三曲がりにして割竹に串刺しして御幣のように3本立てるそうです。
最初、4社の白鳥神社は小さな祠のようなものが祀られているだけかと思っていたのですが、想像は外れてどの白鳥神社も立派な社殿なので驚きます。
それだけ東近江市(旧永源寺地域)は信仰の篤い地域だったことが伺われ、今も守り続けられていることに感銘致します。
<石谷町の白鳥神社>
さて、東近江市東南部の「白鳥神社」は石谷町の白鳥神社が最後になります。
この神社には勧請縄はありませんでしたが、年初には両端に頭の付いた勧請縄が掛けられ、中央にはトリクグラズが吊るされるそうです。
この石谷町の白鳥神社も立派な神社となっていて参道の両脇の樹木の奥に見える拝殿と奥にある本殿からは、落ち着いた佇まいが感じられます。
石谷町の白鳥神社も池之脇町や高木町の白鳥神社と同様に御祭神は「日本武尊」を祀ります。
ここまで参拝した4社の白鳥神社の中で、石谷町の白鳥神社だけが平地のど真ん中に祀られていました。
日野町側の山の下には棚田も見えますが、残りの3方向は蒲生野の平野が広がる立地です。
この旧永源寺エリアの白鳥神社から琵琶湖近くにある種町「白鳥神社」までは20キロ程度の距離があります。
愛知川を中流域から下流域に向かうイメージで、道中の左方向には太郎坊宮のある赤神山や安土城のあった安土山がある位置関係です。
<種町の白鳥神社>
種町「白鳥神社」は、天平時代に行基が勧請したと伝わる寺院で、この白鳥神社でも御祭神に「日本武尊」を祀ります。
種町の平野部は琵琶湖近くとはいえ少し距離がありますが、内湖の多かった湖東地方からすると、ここより琵琶湖寄りは内湖になっていた可能性もあります。
神社は武家の崇高が厚かったといい、社紋の「丸に2つ引」は足利将軍家より奉られたものと伝わりますが、明治28年に村中に大火があり、類焼したが同33年10月再建したとされる社殿です。
境内社は「日吉神社・野神神社・稲荷神社」の3社で、境内社と本殿の間には奉納されたツルの像が祀られている。
「白鳥神社」にツルの像を祀るのは、神社名や縁起物の意味合いもあると思いますが、白鳥(シラトリ)の古代史を感じてしまうのは自分だけでしょうか。
種町の白鳥神社には少し離れた場所に奥宮址が2カ所あり、畑の一角に石標のみが残る場所と、石碑と石標が残る広い場所がありました。
そこに置かれた石碑には「丸に2つ引」の社紋が彫られた石碑があり、これが足利将軍家より奉られたという社紋なのでしょう。
「白鳥と古代史」を巡る東近江の短い旅はこれで終わりです。
この冬に飛来してくる白鳥(シラトリ)への想いも新たに、新鮮な出会いとなりそうです。
(過去撮影の写真)
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