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“男のためのガーデニング”改め

石田三成の佐和山城跡を巡る~龍潭寺から佐和山城址へ~

2022-12-16 17:20:20 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城」という狂歌があるように、「佐和山城」は石田三成の居城であり三成が入城後には五層の天守が高くそびえたつ近世城郭だったと伝承されています。
「三成に過ぎたるもの」と佐和山城とされたのは、時代の敗者ゆえに貶めるような狂歌とされたのだと思いますが、実際の佐和山城の中は荒壁・板敷きで畳もない質素な造りだったという。

「佐和山城」の歴史は古く、鎌倉期の佐保氏(佐々木氏)・小川氏(六角氏)・磯野氏(浅井氏)・丹羽氏(織田氏)を経て石田三成が入城したという。
徳川の時代になると井伊直政が入城したものの領民の三成への思慕が強く、彦根城の築城を行った後に佐和山城は廃城になったとされている。



佐和山へは井伊家の菩提寺である「龍潭寺」の山門から入り、観音堂の横を通って登山道へと入る。
江戸時代には三成軍の残党が佐和山へ入らないように警備する役割もあったといいますが、元禄期になると石田三成の菩提を弔うことが許されたという。
参道には「石田三成公像」があり、「石田三成群霊供養」の碑の横には「佐和山観音」が祀られていて、戦いの歴史から弔いの歴史へと時は流れている。



佐和山城址を登り下りする時に驚いたのは、山頂へ行かれる方の多かったことです。
彦根観光で訪れてそのまま登られる方、登りたいから登っている当方のような人、面白いのは三成人気もあってカメラを首に下げた女性の一人姿が多かったことです。
一般的に歴女やカメラ女子とか呼ばれる方々だと思いますが、やはり現地へ行かないと分からないことが多いですから、その気持ちは当方も同じでよく分かります。



山門をくぐって龍潭寺の境内に入りますが、寺院のご好意により拝観料はなく、そのまま観音堂方向に進み登山口を目指します。
境内は苔や樹木が多いのですが、菩提寺とあってやや重い雰囲気を感じながら進みます。



参道の脇には「佛足石」や七福神の石仏を横目に観音堂の横を抜けると、墓地のエリアに入るとちょっと気味悪く感じるが、後方に人が歩いてきていたので安心感がある。
苔むした佛足石に足形ははっきりと見えるのは、この石が昭和の時代に奉納されたものだからでしょう。



墓地へと向かう道の注意書きの看板には“野猿の群れが出没します。”とあり、山自体は単立の山だが猿山になっているようです。
登り道で猿に出会うことはありませんでしたが、帰り道の墓地の中では野猿の群れがすぐ近くにいてヒヤリとすることになる。



道は低山にも関わらず、いや低山ゆえにと言った方が良いかもしれませんが、なかなかの急坂が続きます。
とはいえ急坂を登っていくと、段々と山の上の方に光が差し込んでいるのが見え、ゴールはさほど遠くはないと思えるのがいい。



山の道筋で切通し等の城跡を示す看板がありますが、あまりにも城址に対する知識が不足しているため言われてみれば切通しがあるのは分かるのだが...といった程度の理解力。
ぼっこりと穴が開いていて半ば壊れた標示があるのが西之丸の「塩硝櫓跡」と呼ばれる曲輪で、塩を保管する場所だったという説があります。



西の丸跡に着くとここにも竪堀らしきはあり、古地図には西の丸に「焔硝櫓」(火薬の保管場所)があったとされている。
そして最後の急坂を登りきると空が開けて本丸跡に到着です。



ここが“三成に過ぎたるもの”と歌われた佐和山城の本丸跡となります。
視界の広がっている場所があって、西にある琵琶湖側や東にある伊吹山側が見渡せますが、本丸跡らしい形跡はほとんど見られません。

本丸は大規模な「破城」があり、一説には石田氏をの遺徳を偲ぶ領民が多かったことから井伊直正が何も残らない状態まで破壊したとされています。
山頂には五層の天守が築かれたと伝わるだけあって広いスペースとなっており、山頂表示と三角点は少し離れた場所にあるためやや広めの山頂を歩き回る。



山頂表示のすぐ下には三等三角点。
ここが山頂の南の端のようで、ここから先にも曲輪が存在したようです。



「千貫井」と「石垣」の案内板があったので進んでみると「隅石垣」らしき石に辿り着く。
彦根市教育委員会の調査で本丸跡の外周を測量したところ、この石垣と同じ高さにある石垣跡が発見されたという。
と考えると基底部の広さから佐和山城が五層の天守の城だったというのもあり得ると思えてきます。



このままっ直ぐに進んで下山すると彦根駅側に出てしまいますので、折り返して山頂へと戻り、元来た道から下山することにします。
山頂から見える伊吹山の裏側にあたる関ケ原で合戦が行われて西軍が敗れた後、三成の父の正継や三成の兄の正澄は2800の軍勢と共に籠城した末に自害し、城は焼き放たれたとされます。



目の前に見えるのは彦根城のある彦根山。
かつては彦根城も佐和山城も琵琶湖の内湖が目の前にあり、湖上運送や軍事上の防御の拠点となっていたようですが、すっかり干拓されていまってかつての面影は知る由もありません。



彦根城をズームで撮ってみました。
彦根城を見降ろせて、城郭がしっかり確認できる場所はこの佐和山の山頂からだけかもしれません。
徳川幕府によって悪者扱いされてしまった三成もこれにはビックリでしょうね。



ということで下山しますが、龍潭寺の墓地の辺りまでくると野猿の群れがたむろしていました。
頭上の木を飛び移ったりしておりましたが、人も猿も必要以上に近づかず一定の距離を取っているので滅多なことはない。



最後に龍潭寺前にある三成マンホールのカラーバージョンです。
三成マンホールは長浜市・米原市・彦根市に計7カ所ありますが、カラーバージョンはここ龍潭寺前と彦根駅前だけのようです。





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