2019年は亥(イノシシ)年になり、干支では「己亥(つちのとい)」の年にあたるといいます。
それぞれの年の干支の意味については諸説ありますが、亥年は“無病息災”や“勇気と冒険”の年と言われることが多いようです。
蒲生郡日野町に「馬見岡綿向神社」という猪を神の使いとする神社があると聞き、今年の初詣の神社としました。
今年は12年に一度の亥年を迎えるということもあるのでしょう。馬見岡綿向神社へ参拝する方が多く、にぎわいと活気のある初詣となりました。
綿向神社では亥年にのみ奉製授与される「猪の焼き印入り絵馬」があり、未読で申し訳ないけど司馬遼太郎の紀行文「街道をゆく」の近江散歩にこの猪の焼印絵馬の話が取り上げられているそうです。
また、白洲正子の「近江山河抄」にも馬見岡綿向神社のことが取り上げられているといいます。ちょっとした事から読書のきっかけはありそうですね。
神社は545年に「綿向山(標高1110m)」の頂上に出雲国開拓の祖神を迎え祀り、祠を建てたことが始まりとされます。
796年には里宮として現在の地に遷し、蒲生上郡の総社・日野の大宮として当地の産土神として人々の信仰を集めてきたとされます。
鎌倉時代から安土桃山時代になると蒲生氏一族の氏神として庇護され、江戸時代には日野商人(近江商人)の財力に支えられ、出世開運の神として崇め親しまれてきたといいます。
また、馬見岡綿向神社では800年以上の歴史を持つ「日野祭」の祭礼として曳山祭りが行われます。
滋賀県では曳山祭り文化があり、長浜・水口・大津など10ヶ所ほどで曳山祭りが行われますが、この文化が根付いているのは京都文化の影響があるのかもしれません。
神社の境内への入り口にはあまり見かけることのないしめ縄が結界の役目を果たしています。
縄の上部には御幣が付けられ、下部には榊に紙垂を付けた玉串。中央にはリースのように丸めた木の枝がある珍しいものです。
日野町は雪が多い地域なのか境内には雪がかなり残っている場所がありました。
足跡が多く見られますので、雪が積もっていた頃には雪を踏みしめながら参拝された方が多かったのでしょう。
拝殿を奥にのぞむ大鳥居の前ではお焚き上げをされていて、煙が目にしみる。
しかし、この位置までくると綿向神社の想像以上の堂々として清々しい空気に驚きます。
手水舎で心身を清めてから参拝しますが、綿向神社の手水は少し変わっています。
水を尺で汲むのではなく、竹に通された井戸水が幾つかの穴から落ちるところを直接手で受けるというものです。
拝殿は1803年の再建で、日野商人の豪商・中井源左衛門家の寄進で建てられた建築物のようです。
中井源左衛門家は産物回し・金融業などで財を築き、瀬田の唐橋も建立したほどの豪商だったそうですが、明治維新後に大名貸しの貸し倒れなどもあり廃業されてしまったそうです。
本殿は1707年の再建。その威風堂々たる姿に圧倒されます。
本殿も拝殿も銅板葺きですが、昭和58年までは檜皮葺きだったようですから、現在とは雰囲気がかなり違ったのではないかと思われます。
綿向神社の御祭神は「天穂日命(あめのほひのみこと)・天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)・武三熊大人命(たけみくまうしのみこと)」の3柱。
本殿は装飾も見事な建物で、殿の裏側には神様にもっと近い「裏参り」の拝所も設けられており、参拝の列が続いていました。
興味を持ったのは神紋となっている雁金紋で、「雲に二つ遠雁」紋という紋でした。
雁は首の長いガンカモ科の鳥ですが、首をすくめて飛んでいる姿は何とも愛嬌がありますね。
綿向神社と「猪」の関係は御鎮座に由来するといい、社伝では545年、蒲生の豪族であった蒲生稲置三麿と山部連羽咋が綿向山に猟に来ていた時、5月にも関わらず大雪になったといいます。
雪の止むのを待ち、外に出て見ると大きな猪の足跡を見つけて追いかけていくうちに頂上へと導かれていき、そこへ白髪の老人が現れて綿向山の神様の御託宣を受けたとされます。
この謂われをもって、猪は綿向大神の神使いとして祀られているとされているようです。
境内には日野商人ゆかりの「千両松」が植えられており、日野商人の面白い話が伝わっています。
江戸時代に伊豆の三島に醸造業の店を出し巨万の富を築いた辻惣兵衛が儲けたお金を日野へ持って帰る際に、山賊や盗賊を避けるため盆栽の鉢の底に小判を隠して運んだといいます。
その松を境内に植えたのが千両松ということになりますが、現存するこの松は何代目かの松なのでしょう。
境内には末社が18社あり、神社の森で主要建物を取り巻くように祀られていました。
雪解けでぬかるんだ道ではありましたが、一回りしてみます。
石灯籠群と呼ばれる形の異なる大小多くの石灯籠がみられますが、鎌倉時代のものを最古に近江日野商人が数多く奉納されています。
御手洗川岸に立つ2つの大灯籠は高く積み上がった凛々しい姿で、日野の人々の信仰の厚さが伺われます。
ところで、縁起物だということで「猪の焼き印入り絵馬」と「土鈴」を購入し、イノシシみくじをしてみました。
おみくじは吉でしたが、土鈴とみくじを並べてみると愛嬌たっぷりのイノシシの親子になったのが嬉しいところです。
家内安全・無病息災、年齢と共に願いは平穏な方向へと向かいます。
とはいえ、生きている限りは可能な限り挑戦していく気持ちは失ってはいけないと改めて思います。
それぞれの年の干支の意味については諸説ありますが、亥年は“無病息災”や“勇気と冒険”の年と言われることが多いようです。
蒲生郡日野町に「馬見岡綿向神社」という猪を神の使いとする神社があると聞き、今年の初詣の神社としました。
今年は12年に一度の亥年を迎えるということもあるのでしょう。馬見岡綿向神社へ参拝する方が多く、にぎわいと活気のある初詣となりました。
綿向神社では亥年にのみ奉製授与される「猪の焼き印入り絵馬」があり、未読で申し訳ないけど司馬遼太郎の紀行文「街道をゆく」の近江散歩にこの猪の焼印絵馬の話が取り上げられているそうです。
また、白洲正子の「近江山河抄」にも馬見岡綿向神社のことが取り上げられているといいます。ちょっとした事から読書のきっかけはありそうですね。
神社は545年に「綿向山(標高1110m)」の頂上に出雲国開拓の祖神を迎え祀り、祠を建てたことが始まりとされます。
796年には里宮として現在の地に遷し、蒲生上郡の総社・日野の大宮として当地の産土神として人々の信仰を集めてきたとされます。
鎌倉時代から安土桃山時代になると蒲生氏一族の氏神として庇護され、江戸時代には日野商人(近江商人)の財力に支えられ、出世開運の神として崇め親しまれてきたといいます。
また、馬見岡綿向神社では800年以上の歴史を持つ「日野祭」の祭礼として曳山祭りが行われます。
滋賀県では曳山祭り文化があり、長浜・水口・大津など10ヶ所ほどで曳山祭りが行われますが、この文化が根付いているのは京都文化の影響があるのかもしれません。
神社の境内への入り口にはあまり見かけることのないしめ縄が結界の役目を果たしています。
縄の上部には御幣が付けられ、下部には榊に紙垂を付けた玉串。中央にはリースのように丸めた木の枝がある珍しいものです。
日野町は雪が多い地域なのか境内には雪がかなり残っている場所がありました。
足跡が多く見られますので、雪が積もっていた頃には雪を踏みしめながら参拝された方が多かったのでしょう。
拝殿を奥にのぞむ大鳥居の前ではお焚き上げをされていて、煙が目にしみる。
しかし、この位置までくると綿向神社の想像以上の堂々として清々しい空気に驚きます。
手水舎で心身を清めてから参拝しますが、綿向神社の手水は少し変わっています。
水を尺で汲むのではなく、竹に通された井戸水が幾つかの穴から落ちるところを直接手で受けるというものです。
拝殿は1803年の再建で、日野商人の豪商・中井源左衛門家の寄進で建てられた建築物のようです。
中井源左衛門家は産物回し・金融業などで財を築き、瀬田の唐橋も建立したほどの豪商だったそうですが、明治維新後に大名貸しの貸し倒れなどもあり廃業されてしまったそうです。
本殿は1707年の再建。その威風堂々たる姿に圧倒されます。
本殿も拝殿も銅板葺きですが、昭和58年までは檜皮葺きだったようですから、現在とは雰囲気がかなり違ったのではないかと思われます。
綿向神社の御祭神は「天穂日命(あめのほひのみこと)・天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)・武三熊大人命(たけみくまうしのみこと)」の3柱。
本殿は装飾も見事な建物で、殿の裏側には神様にもっと近い「裏参り」の拝所も設けられており、参拝の列が続いていました。
興味を持ったのは神紋となっている雁金紋で、「雲に二つ遠雁」紋という紋でした。
雁は首の長いガンカモ科の鳥ですが、首をすくめて飛んでいる姿は何とも愛嬌がありますね。
綿向神社と「猪」の関係は御鎮座に由来するといい、社伝では545年、蒲生の豪族であった蒲生稲置三麿と山部連羽咋が綿向山に猟に来ていた時、5月にも関わらず大雪になったといいます。
雪の止むのを待ち、外に出て見ると大きな猪の足跡を見つけて追いかけていくうちに頂上へと導かれていき、そこへ白髪の老人が現れて綿向山の神様の御託宣を受けたとされます。
この謂われをもって、猪は綿向大神の神使いとして祀られているとされているようです。
境内には日野商人ゆかりの「千両松」が植えられており、日野商人の面白い話が伝わっています。
江戸時代に伊豆の三島に醸造業の店を出し巨万の富を築いた辻惣兵衛が儲けたお金を日野へ持って帰る際に、山賊や盗賊を避けるため盆栽の鉢の底に小判を隠して運んだといいます。
その松を境内に植えたのが千両松ということになりますが、現存するこの松は何代目かの松なのでしょう。
境内には末社が18社あり、神社の森で主要建物を取り巻くように祀られていました。
雪解けでぬかるんだ道ではありましたが、一回りしてみます。
石灯籠群と呼ばれる形の異なる大小多くの石灯籠がみられますが、鎌倉時代のものを最古に近江日野商人が数多く奉納されています。
御手洗川岸に立つ2つの大灯籠は高く積み上がった凛々しい姿で、日野の人々の信仰の厚さが伺われます。
ところで、縁起物だということで「猪の焼き印入り絵馬」と「土鈴」を購入し、イノシシみくじをしてみました。
おみくじは吉でしたが、土鈴とみくじを並べてみると愛嬌たっぷりのイノシシの親子になったのが嬉しいところです。
家内安全・無病息災、年齢と共に願いは平穏な方向へと向かいます。
とはいえ、生きている限りは可能な限り挑戦していく気持ちは失ってはいけないと改めて思います。