滋賀県の湖東地方の東近江市にある繖山・猪子山が連なる山には、西国三十三所札所の観音正寺や桑実寺・教林坊、石馬寺・北向岩屋十一面観音を始めとする神社仏閣が集中しています。
繖山の西方向には安土山、東南方向の山には箕作山・赤神山(太郎坊山)・岩戸山などの霊山があり、それらの山々には数多くの巨石が見られ、聖徳太子と縁の深い寺院が多い。
繖山の西側の中腹には「須田不動」という不動尊を祀る祠がありといい、滝行修行が行われていたという繖山の中腹にある修行場へと足を運びました。
集落を外れて山麓へ進んでいくと、獣除けの鉄柵が張られている場所に着き、鉄柵の扉は参拝歩道と参拝車道への道に分かれている。
参拝歩道の方は手前の駐車スペースの向こうに石段があって登って行くのだと思われますが、ひとけが全くなく、先の道が見えないこともあって、怖くなってしまい林道からの道を進むことにします。
参拝車道の鉄柵を開けて中に入り、再び閉じて鎖を掛けていると、自分で自分を檻の中に収監するような気分になり、思わず“何やってんだろ”と複雑な気分になる。
林道の途中には養蜂の巣箱が並べられていますが、場所の寂寥感もあって墓地のような印象すら感じてしまう。
滋賀県の山麓などで養蜂されている場所や、道の駅などで地元産の蜂蜜が販売されているのを見かけることがありますが、それだけ滋賀には豊かな自然が残されている場所が多いということなのでしょう。
林道終点の駐車場から参道へ入り参拝歩道の石段を見降ろしてみると、しっかりとした石段が続いており、石段登りで不動尊を目指す。
獣除けの柵から入って人の姿のない場所ですので、最近愛用している熊鈴を付けて石段を登ります。
熊鈴の音は腰に付けているだけで頼りがいのあることか。効果はともかく安心感が増しますね。
石段はすぐに登りきることができ、「大聖不動尊」と彫られた石碑が見えてくる。
石碑の後方には川が流れ水音が聞こえてきており、平地からさほど離れている場所ではないにも関わらず秘境感のある場所です。
石組で造られた手水があったが、源泉が枯れているのか渇水しているのか水は出ていない。
尺が置いてあったが、さすがにこの水で清めるのは躊躇われるため、遠慮させていただく。
驚いたことに少し坂を下った所には巨石があり、注連縄が巻かれているのでこの不動尊の磐座なのでしょう。
磐座があるのは想定外でしたが、導かれるように坂を下っていきます。
磐座の前には滝行の姿に着替える場所があり、紅と白のふんどしが掛けられていました。
随分長い間放置されていたようで汚れたものだったが、かつてはここでふんどし1枚になって滝行へと向かったのでしょう。
磐座は坂の上からは平坦な岩のように見えたが、回り込んで横から見ると川に寄り掛かるような姿をしています。
大きさも見ごたえのある巨石で、苔の生え方も日陰になる部分に厚みがあり、平坦部にはスギの枯葉が積もっています。
磐座の横には山の清流が岩の間を縫うように流れていて、透明度の高い清水です。
奥に見えるのが不動尊へ通じる橋ですが、この辺りの巨石の多さも感慨深い。
川の向こう側の高台の崖になっているところに不動尊は祀られており、石垣の上部に滝行の水の落ちる場所がある。
残念ながら水は流れておらず、滝行の場所にも近い時期に水が落ちていた形跡がないが、かつては水量のある滝行の場だったようです。
滝が流れている時であったら、その直下に不動明王石仏が祀られています。
倶利伽羅剣・腕飾り・首飾りなどの装飾部は青く着色され、火炎光背は白系と特徴的な姿をしておられます。
不動尊への階段を登っていくと石碑があり、壊れた祭壇の下に白蛇の置物がありました。
繖山の西側には湖東平野の田園地帯が広がっており、繖山の龍神に雨乞いをしていたのかと思います。
最上部の不動堂の中には石造りの祠があり、鍵が掛けられていて拝むことは叶いませんが、中には不動尊が祀られていると思います。
不動明王を祀る水行の場独特の空気が流れる場所には、厳粛さと得体のしれぬ怖ろしさのようなものを感じざるを得ません。
不動堂から下を見ると磐座を上から鳥瞰することができます。
手前に突き出ている管から水が落ちて水行の場となります。時期によって水が流れるのであれば再訪したい場所です。
「須田不動の滝」から山裾へ戻り「五十余州神社」に参拝します。
「五十余州神社」は、観音寺城落城の際に自害した「佐々木六角一族五十余人之霊神」を御祭神として祀っているといいます。
織田信長が将軍・足利義昭を擁して上洛の折、信長軍と佐々木六角氏と戦いになり、敗れた佐々木六角氏の家族・家臣50余人が須田川原で自害し、その御霊を祀っているといいます。
鳥居を抜けると山のすぐ下まで緩やかながら長い石段が続き、本殿までの間には「天満宮」「愛宕神社」がそれぞれ境内社として祀られている。
この一直線の石段の道は繖山へと続き、集落側を見れば真っすぐな坂道となって集落を横切っている。
本殿の境内には遥拝所が設けられていて、方角は繖山の方を向いているように思える。
繖山への山岳信仰と考えられますが、その方向には佐々木六角氏の居城の観音寺城址があり、遥か先には伊勢神宮もある方向なのが気になります。
拝殿から本殿へとつながる渡り廊下は雪囲いされていはいますが、神社自体は境内も広く立派な神社だと思います。
大名ではない人たちの自害した御霊を寺院に祀ることが多々あるとはいえ、神社の御祭神として祀るのもこの地域独特の祀り方のように思います。
木々の間から見えるのは安土山でしょうか。
戦国時代やそれ以前の時代には琵琶湖の内湖が広がっているのが見えたのかもしれません。
繖山の西方向には安土山、東南方向の山には箕作山・赤神山(太郎坊山)・岩戸山などの霊山があり、それらの山々には数多くの巨石が見られ、聖徳太子と縁の深い寺院が多い。
繖山の西側の中腹には「須田不動」という不動尊を祀る祠がありといい、滝行修行が行われていたという繖山の中腹にある修行場へと足を運びました。
集落を外れて山麓へ進んでいくと、獣除けの鉄柵が張られている場所に着き、鉄柵の扉は参拝歩道と参拝車道への道に分かれている。
参拝歩道の方は手前の駐車スペースの向こうに石段があって登って行くのだと思われますが、ひとけが全くなく、先の道が見えないこともあって、怖くなってしまい林道からの道を進むことにします。
参拝車道の鉄柵を開けて中に入り、再び閉じて鎖を掛けていると、自分で自分を檻の中に収監するような気分になり、思わず“何やってんだろ”と複雑な気分になる。
林道の途中には養蜂の巣箱が並べられていますが、場所の寂寥感もあって墓地のような印象すら感じてしまう。
滋賀県の山麓などで養蜂されている場所や、道の駅などで地元産の蜂蜜が販売されているのを見かけることがありますが、それだけ滋賀には豊かな自然が残されている場所が多いということなのでしょう。
林道終点の駐車場から参道へ入り参拝歩道の石段を見降ろしてみると、しっかりとした石段が続いており、石段登りで不動尊を目指す。
獣除けの柵から入って人の姿のない場所ですので、最近愛用している熊鈴を付けて石段を登ります。
熊鈴の音は腰に付けているだけで頼りがいのあることか。効果はともかく安心感が増しますね。
石段はすぐに登りきることができ、「大聖不動尊」と彫られた石碑が見えてくる。
石碑の後方には川が流れ水音が聞こえてきており、平地からさほど離れている場所ではないにも関わらず秘境感のある場所です。
石組で造られた手水があったが、源泉が枯れているのか渇水しているのか水は出ていない。
尺が置いてあったが、さすがにこの水で清めるのは躊躇われるため、遠慮させていただく。
驚いたことに少し坂を下った所には巨石があり、注連縄が巻かれているのでこの不動尊の磐座なのでしょう。
磐座があるのは想定外でしたが、導かれるように坂を下っていきます。
磐座の前には滝行の姿に着替える場所があり、紅と白のふんどしが掛けられていました。
随分長い間放置されていたようで汚れたものだったが、かつてはここでふんどし1枚になって滝行へと向かったのでしょう。
磐座は坂の上からは平坦な岩のように見えたが、回り込んで横から見ると川に寄り掛かるような姿をしています。
大きさも見ごたえのある巨石で、苔の生え方も日陰になる部分に厚みがあり、平坦部にはスギの枯葉が積もっています。
磐座の横には山の清流が岩の間を縫うように流れていて、透明度の高い清水です。
奥に見えるのが不動尊へ通じる橋ですが、この辺りの巨石の多さも感慨深い。
川の向こう側の高台の崖になっているところに不動尊は祀られており、石垣の上部に滝行の水の落ちる場所がある。
残念ながら水は流れておらず、滝行の場所にも近い時期に水が落ちていた形跡がないが、かつては水量のある滝行の場だったようです。
滝が流れている時であったら、その直下に不動明王石仏が祀られています。
倶利伽羅剣・腕飾り・首飾りなどの装飾部は青く着色され、火炎光背は白系と特徴的な姿をしておられます。
不動尊への階段を登っていくと石碑があり、壊れた祭壇の下に白蛇の置物がありました。
繖山の西側には湖東平野の田園地帯が広がっており、繖山の龍神に雨乞いをしていたのかと思います。
最上部の不動堂の中には石造りの祠があり、鍵が掛けられていて拝むことは叶いませんが、中には不動尊が祀られていると思います。
不動明王を祀る水行の場独特の空気が流れる場所には、厳粛さと得体のしれぬ怖ろしさのようなものを感じざるを得ません。
不動堂から下を見ると磐座を上から鳥瞰することができます。
手前に突き出ている管から水が落ちて水行の場となります。時期によって水が流れるのであれば再訪したい場所です。
「須田不動の滝」から山裾へ戻り「五十余州神社」に参拝します。
「五十余州神社」は、観音寺城落城の際に自害した「佐々木六角一族五十余人之霊神」を御祭神として祀っているといいます。
織田信長が将軍・足利義昭を擁して上洛の折、信長軍と佐々木六角氏と戦いになり、敗れた佐々木六角氏の家族・家臣50余人が須田川原で自害し、その御霊を祀っているといいます。
鳥居を抜けると山のすぐ下まで緩やかながら長い石段が続き、本殿までの間には「天満宮」「愛宕神社」がそれぞれ境内社として祀られている。
この一直線の石段の道は繖山へと続き、集落側を見れば真っすぐな坂道となって集落を横切っている。
本殿の境内には遥拝所が設けられていて、方角は繖山の方を向いているように思える。
繖山への山岳信仰と考えられますが、その方向には佐々木六角氏の居城の観音寺城址があり、遥か先には伊勢神宮もある方向なのが気になります。
拝殿から本殿へとつながる渡り廊下は雪囲いされていはいますが、神社自体は境内も広く立派な神社だと思います。
大名ではない人たちの自害した御霊を寺院に祀ることが多々あるとはいえ、神社の御祭神として祀るのもこの地域独特の祀り方のように思います。
木々の間から見えるのは安土山でしょうか。
戦国時代やそれ以前の時代には琵琶湖の内湖が広がっているのが見えたのかもしれません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます