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【関ヶ原の戦い】を巡る!③~南宮山の毛利秀元陣城跡から南宮山登山!~

2025-01-31 06:18:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「関ヶ原の戦い」での有名な故事に「宰相殿の空弁当」があり、南宮山に布陣した毛利秀元を西軍が敗れると予想した吉川広家が足止めしたことをいいます。
長束正家の急使が秀元に戦闘参加を要請したものの“兵卒に兵糧を食させている最中なり。”と動かなかったため「宰相殿の空弁当」という故事になったという。

もちろん実際に弁当を食べていた訳ではなく、事前に吉川広家は徳川家康と停戦の交渉をしており、秀元や安国寺恵瓊・長宗我部盛親は参戦を阻止されています。
徳川軍の背後に陣のあった毛利軍が東軍を攻撃し、松尾山にいた小早川秀秋の裏切りがなく毛利両川が西軍で戦っていれば...?



南宮山は「南宮大社」が登山口となっており、南宮大社は美濃国一宮として金山彦命を主祭神として祀ります。
金山彦命は鉱山を司どる神として知られ、古くから全国の鉱山・金属業の総本宮として信仰を集めてきたといいます。
南宮大社は関ヶ原の戦いで焼失したものの、徳川家光により再建され、楼門・拝殿・高舞殿・本殿・幣殿・境内社・工芸品などが国の重文指定を受けています。



南宮山には展望台まで登れる整備されたハイキングコースがあり、コースは2つあるが片方のコースは荒れてしまっていて通行が出来なくなっています。
もう一方のコースは整備が行き届いており、展望台から先の南宮山の山頂へのルートは立入を遠慮するよう注意喚起されている道となる。

南宮山で心配だったのは熊の出没で、2023年には熊出没により南宮山ハイキングコースが閉鎖されていた時期があったといいます。
誰もいない山の中で熊に会うのは怖ろしいと思っていましたが、南宮山は結構人気があるのか何人かの人に会い安心感があった。



関ヶ原近くの山はこの南宮山にしろ、松尾山にしろ民家からさほど離れていないのに熊注意!の山となっているのが不思議にも思えてしまいます。
道は4合目の辺りまで木段が続き、そこから10合目までは歩きやすい坂道になります。



道の各所に〇合目を示す徳利と杯の標識があり、他にも〇/10と位置を示す標識があるので楽しめながら登れます。
徳利の絵が一升瓶の絵に変わると展望台に到着というコースで、展望台まで約1時間の工程を登ります。



南宮山には「南宮大社」と神仏習合の信仰のあった「南宮十坊」と呼ばれた寺院が山中に点在していたといいます。
「宝珠院」は天平の時代に始まり、平安時代には南宮別当とされていた寺院で、現在は寺院跡を残すのみですが、一部の残る石垣は宝珠院跡を示す遺構なのかもしれません。



宝珠院と同じく南宮別当とされていた「観音堂」への道がありましたので少し寄り道してみます。
南宮十坊の盛衰についてはよく分かりませんが、明治維新の神仏分離令によって統廃合されて「朝倉山真禅院」に納められたようです。



5号目の辺りの道横に高くなっている場所があり、ここに四等三角点(点名:南宮」がありました。
高さは299mとあり、山頂ではない場所にありますが、三角点は測量の基準点ですからここもそのひとつということになります。



三角点のある場所から少し登ると「一ツ松の旧跡」という場所があり、石碑が建てられていました。
かつてここには天人降臨の御神木があったといい。古来「人来の松」と呼ばれて新古今集の和歌の歌枕として詠まれているという。



一ツ松は旧跡を残すのみですが、現在の御神木のスギが道脇に聳えています。
まっすぐに立つ幹と枝分かれした上部の見事な御神木スギで、先行者は幹に両手を添えて力を受け取っておられました。



石垣の上に祀られているのは南宮大社の奥宮とされる「高山神社」と「子安神社」です。
「高山神社」は祭神に木花咲弥姫命をお祀りし、美濃国の水源を司る女神として祀られているという。
「子安神社」に祀られる保食神は、安産・子育ての霊験高く、稲を育てると共に子を育てる水の神とされます。



9合目を過ぎるといよいよ「毛利秀元陣城跡」に入り、主郭(展望台)に向かって竪堀・土塁・櫓台・堀切・虎口が分かりやすい形で整備されています。
「竪堀」は斜面を縦に掘ることで敵の横移動を防ぐ防御施設で、先は急斜面に切り込まれています。



竪堀の手前は堀切になっていて、更にその手前には堀切を越えるために土で作られた「土橋」があります。
結果的に全く使われることのなかった陣城跡ですが、密約を知らされていなかった秀元は万全の準備をしていたのでしょう。



高く土を盛り上げた「土塁」は今も高く盛り上がり、敵の侵入を防御しています。
500年以上も前の城跡がそのまま残っているとは思えませんので、適切な管理や補修をされているのではないかと思います。



城跡巡りを趣味にしている訳ではないものの、山歩のたびに城跡に遭遇する機会が多くなっています。
そのおかげでチンプンカンプンだった言葉も少しは分かるようになり、主郭の曲輪につながる「虎口」も分かりやすい形でした。



〇合目と書かれていた徳利と杯の絵は、展望台まで来ると一升瓶とコップに変わります。
展望台に人はチラホラと居られましたが、白く霞んで景色はイマイチなので展望台でゆっくりされる方は僅かでした。



主郭のあったと思われる場所には石碑が建ち、毛利秀元がここで陣取っていたことを示しています。
秀元は西軍の総大将として大坂城に入城した毛利輝元の名代ですが、主郭は大垣城や犬山城・名古屋城のある大垣・愛知方面を向いています。



戦場となった関ヶ原はここからは望めず、大垣城を取り囲む東軍を牽制するための布陣とされるが、毛利勢が東軍の背後から攻めるのが三成の戦略。
結局、戦に参加しなかった毛利家は120万5千石から36万9千石に大きく減封され、その屈辱は打倒徳川として明治維新につながっていくという。



さてここから先はハイキング道を離れて南宮山への登山道になります。
情報では道迷いしそうな場所もあるがピンクテープをたどれば迷わないとあり、休憩されていた地元の方も“行けますよ!”と言われていたので山頂を目指して進みます。

最初は道は明瞭で分かりやすかったのですが、山幅の広い場所では道に落ち葉が積層して道が不明瞭になっていました。
踏み跡が確認出来ない上にピンクテープは全く見当ずで道迷いしてしまい、激坂を何度も登り下りして大苦戦することになる。
まるでバリエーションルートを突き進むようなバリ山行に陥る羽目になり、結局倍以上の時間をかけてやっと南宮山の山頂に辿り着いた。



季節的に落葉の季節で踏み跡や道が見えなくなっており、進める方向が沢山あったのが道迷いの原因だったと思います。
幸いにしてアプリに地図をダウンロードしていたので方向修正が出来ましたが、ピンクテープはある時と除去されることがあるようなので要注意。



「南宮山山頂(標高419m)」。二等三角点:点名「牧田村」。
眺望が全くないのは分かっていましたが、ピークハントでやって来ました。

帰り道は迷わず帰ろう!と思っていたが、帰り道でも迷ってしまって、再びのバリ山行となってしまいました。
教訓としては、迷ったら例えそれが激坂であっても、登り返して元の場所に戻るのが原則だと実感。



下山後に毛利軍を足止めさせた吉川広家の陣跡に立ち寄ってみました。
毛利の陣城は徳川家康の最初陣跡の後方にあって、東軍からは脅威の位置にあるが、実際に合戦が行われた関ヶ原からかなりの距離があります。
広家はこの陣で「宰相殿の空弁当」の如く、のらりくらりと本戦不参加を決め込んでいたのでしょう。



合戦後、毛利家も吉川家も領地を大幅に減らされることになりましたが、秀元が広家の制止を聞かず、家康に攻め入っていれば...。
小早川秀秋が裏切らず、東軍と対座していれば...。
豊臣秀頼を擁した毛利輝元が大坂城で籠城して戦っていれば...。
歴史のIFを思い浮かべると話は尽きません。



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