聖徳太子に由緒を持つ社寺は、滋賀県内で99を数えるといい、近畿の府や県では群を抜いた多さで半数以上は東近江・近江八幡・日野・竜王に集中しているそうです。
かつて滋賀県では天台宗の寺院が数多く建立され、聖徳太子の生まれ変わりとされる最澄に対する信仰が高かった影響とされていて、寺院の多くは山の中腹辺りにあることが多い。
道の駅でもらった「聖徳太子と出会う近江一万階段」では、聖徳太子にまつわる48の社寺の石段を登ろうという新しい観光ルートが企画されているとのこと。
石段の総数は1万6千227段になり、富士山の標高(3776m)とほぼ同じになるそうです。(読売新聞記事から抜粋)
1万段の石段にチャレンジするつもりはないのですが、以前に参拝して軟弱にも林道を使ってしまった「瓦屋禅寺」の石段994段を登ってみることにしました。
冊子では各社寺の石段の難易度を相撲のように“横綱・大関・関脇・幕内”と分け、「瓦屋禅寺」は横綱級のランク付けの石段です。
大門跡の近くにある獣除けのゲートから参道に入ると、見上げんばかりに続く石段が見えてきます。
この石段は史跡により迂回の必要な1カ所をのぞいて、上りの石段だけで平面を歩くことは全くありません。
「瓦屋禅寺」の参道には古墳時代後期の「瓦屋寺山古墳」が57基確認されているといい、この辺りは縄文時代から集落が営まれた地とされているという。
参道に「53号古墳」の案内板があったので、石段を離れて進んでみると石室が開いている円墳がありました。
石室の内部は巨大な岩で構成されたような古墳ではなく、同じくらいの大きさの石が積まれてできています。
山の麓にある「北山古墳」はこれより大きく、石室の内部がはっきりと確認できる古墳だが、53号古墳は北山古墳よりも小さい。
石段をさらに登ったところには「47号古墳」と「48号古墳」があったが、こちらはかなり崩れてしまい、確認しづらい状態になっていた。
2つの古墳は隣り合わせの位置にあるが、夫婦とか親子なのだろうか
「47号古墳」は看板がなければ気が付かない状態にまでなっており、石室も埋まってしまっている。
「48号古墳」は石室は確認できる状態ですが、こちらもかなり崩れつつあります。
2つとも円墳だと思いますが、山の斜面を利用して造られた古墳でした。
古墳の墳丘の辺りに巨石と巨石の上に生える木がありました。
この木の根はどこを通っているのかよく分からなかったのですが、怖ろしい生命力の木なんだと思わざるを得ません。
参道脇に「閻魔堂跡」の看板があり、かつて御堂があっただろうと推測できる礎石のようなものが残っています。
閻魔堂は麓にある松尾神社の境内にあった尊勝寺にあったいいますが、明治の廃仏毀釈により尊勝寺が廃寺になり、瓦屋禅寺の参道のこの場所へ移されたという。
しかし昭和の時代になって林道が開通して、石段を利用する人が減少したため、昭和50年に境内の一角へ移築されたそうです。
瓦屋禅寺の境内に祀られる閻魔大王は下の写真で、参道に閻魔堂があった時には“清き心の持ち主のみ、その聖域の先へ進むことが許されていた”とされます。
瓦屋禅寺と聖徳太子の縁は、太子が四天王寺建立の際に蘇我大臣に命じて、山麓の竃で10万6千枚の瓦を焼かせ、山上に「瓦屋寺(瓦寺)」を建立したと伝わります。
太子は「十一面千手観音」と「四天王像」を彫られたと伝承され、険しい山中を登る途中、太子はここで腰掛て休憩されたという。
その石が「聖徳太子の腰掛石」として残され、石碑は文政12年(1829年)の刻印がありました。
瓦屋禅寺が禅宗寺院になる前の華厳宗の時代には24宇、天台宗の時代には48坊があったとされますが、織田信長の兵火により堂宇は悉く消失してしまったといいます。
現在、僧坊はなく跡地だけが残されており、かつての僧坊跡には石垣だけが残されている。
石垣が残る山中の寺院が多いですが、かつての大寺では僧坊を砦として僧兵が戦を戦った時代があったのでしょう。
真っすぐに登って行く石段に一カ所だけ突き当たって迂回する道があります。
石段の中央にあるのは「白蛇伝説」の伝わる場所。
聖徳太子が寺を建立された時に白い鹿が現れた、またこの場所も古えは「三井」と呼ばれ、白蛇の塚があったとされる場所になります。
白蛇伝説の場所には5丁の石碑がありましたのでここで半分くらいかと思いながら石段に戻るが、さらに延々と石段が続いており、終わりが見えない。
高さのない段なので疲れはさほどでもないものの、足の置き場に注意したり、ガタついた石段でバランスを崩さないようにして登る。
参道を外れて少し下った場所には「弁慶の背比べ石」があります。
白蛇伝説の石と形が良く似ていますが、弁慶の背比べ石の方が遥かに大きく、弁慶の大男ぶりをあらわすような石です。
源義経が家来を連れて太郎坊宮に参拝し、瓦屋寺にも参詣したところ、寺のお坊さんが弁慶に「この石と背比べしないかと持ち掛けたという。
弁慶が背比べしたところ、石の方が高かったので弁慶は怒ってその石を蹴飛ばしたという。すると石の先端が割れて飛んでいき田んぼの中に落ちた。
以降この地を「田中」と呼ぶことになったとありました。
そろそろ空の上が抜けてきたと感じ始めた頃、「箕作山」の磐座とされる巨石が見えてきます。
東より太陽が昇り生活が始まり、西に沈む時にはその一日へ感謝を述べて磐座へお供え物を祀り、祈りを捧げたとされたそうです。
境内地に入ると「般若石」が祀られています。
太郎坊宮のある赤神山と箕作山にある瓦屋禅寺は山続きでつながっていますから、箕作山にも巨石が多い。
本堂は開いており、御本尊「十一面千手観世音菩薩立像(御前立)と「聖徳太子像」が祀られ、「四天王像」が守護しています。
御本尊の「十一面千手観世音菩薩立像」は秘仏ですが、2023年に三十三年に一度の御開帳をされるので、来年には拝観することが出来そうです。
展望台からは霊仙山と伊吹山が同じ視野の中で望めます。
鈴鹿の山々が連なる中で、2つの山だけが頭一つ上に突き出ているのが分かります。
このまま箕作山まで登ろうかと思ったが、登山口が分からず石段を下りましたが、ガタツキの多い部分のある石段ですのでスピードが上がらず結構時間がかかってしまいました。
車に戻って八日市市街を抜けた辺りまで来ると、何やら興味深いものを発見しました。
民家の前に「大塚古墳」という円墳があり、埴輪が5躰乗せられています。
古墳は「建部大塚古墳群」のひとつで、古墳時代後期(6~7世紀)の古墳とされているという。
古墳を回り込んでみると、石室が開いており、中が覗けるようになっています。
石室の周囲は草が多い茂っており、中には石造りの五輪塔が中央に置かれている。
かつては人の住まないところに古墳はあったのでしょうけど、今は古墳が民家のすぐ隣にあるのは時々見かける光景です。
大塚古墳群に属する別の古墳では鉄製武器・馬具・須恵器等が発掘されているようですが、人物埴輪はどうなんでしょう。
とはいえ、車の通行の多い道路沿いの古墳に人物埴輪が置かれていると、目を引きますしワクワク感がありますね。
かつて滋賀県では天台宗の寺院が数多く建立され、聖徳太子の生まれ変わりとされる最澄に対する信仰が高かった影響とされていて、寺院の多くは山の中腹辺りにあることが多い。
道の駅でもらった「聖徳太子と出会う近江一万階段」では、聖徳太子にまつわる48の社寺の石段を登ろうという新しい観光ルートが企画されているとのこと。
石段の総数は1万6千227段になり、富士山の標高(3776m)とほぼ同じになるそうです。(読売新聞記事から抜粋)
1万段の石段にチャレンジするつもりはないのですが、以前に参拝して軟弱にも林道を使ってしまった「瓦屋禅寺」の石段994段を登ってみることにしました。
冊子では各社寺の石段の難易度を相撲のように“横綱・大関・関脇・幕内”と分け、「瓦屋禅寺」は横綱級のランク付けの石段です。
大門跡の近くにある獣除けのゲートから参道に入ると、見上げんばかりに続く石段が見えてきます。
この石段は史跡により迂回の必要な1カ所をのぞいて、上りの石段だけで平面を歩くことは全くありません。
「瓦屋禅寺」の参道には古墳時代後期の「瓦屋寺山古墳」が57基確認されているといい、この辺りは縄文時代から集落が営まれた地とされているという。
参道に「53号古墳」の案内板があったので、石段を離れて進んでみると石室が開いている円墳がありました。
石室の内部は巨大な岩で構成されたような古墳ではなく、同じくらいの大きさの石が積まれてできています。
山の麓にある「北山古墳」はこれより大きく、石室の内部がはっきりと確認できる古墳だが、53号古墳は北山古墳よりも小さい。
石段をさらに登ったところには「47号古墳」と「48号古墳」があったが、こちらはかなり崩れてしまい、確認しづらい状態になっていた。
2つの古墳は隣り合わせの位置にあるが、夫婦とか親子なのだろうか
「47号古墳」は看板がなければ気が付かない状態にまでなっており、石室も埋まってしまっている。
「48号古墳」は石室は確認できる状態ですが、こちらもかなり崩れつつあります。
2つとも円墳だと思いますが、山の斜面を利用して造られた古墳でした。
古墳の墳丘の辺りに巨石と巨石の上に生える木がありました。
この木の根はどこを通っているのかよく分からなかったのですが、怖ろしい生命力の木なんだと思わざるを得ません。
参道脇に「閻魔堂跡」の看板があり、かつて御堂があっただろうと推測できる礎石のようなものが残っています。
閻魔堂は麓にある松尾神社の境内にあった尊勝寺にあったいいますが、明治の廃仏毀釈により尊勝寺が廃寺になり、瓦屋禅寺の参道のこの場所へ移されたという。
しかし昭和の時代になって林道が開通して、石段を利用する人が減少したため、昭和50年に境内の一角へ移築されたそうです。
瓦屋禅寺の境内に祀られる閻魔大王は下の写真で、参道に閻魔堂があった時には“清き心の持ち主のみ、その聖域の先へ進むことが許されていた”とされます。
瓦屋禅寺と聖徳太子の縁は、太子が四天王寺建立の際に蘇我大臣に命じて、山麓の竃で10万6千枚の瓦を焼かせ、山上に「瓦屋寺(瓦寺)」を建立したと伝わります。
太子は「十一面千手観音」と「四天王像」を彫られたと伝承され、険しい山中を登る途中、太子はここで腰掛て休憩されたという。
その石が「聖徳太子の腰掛石」として残され、石碑は文政12年(1829年)の刻印がありました。
瓦屋禅寺が禅宗寺院になる前の華厳宗の時代には24宇、天台宗の時代には48坊があったとされますが、織田信長の兵火により堂宇は悉く消失してしまったといいます。
現在、僧坊はなく跡地だけが残されており、かつての僧坊跡には石垣だけが残されている。
石垣が残る山中の寺院が多いですが、かつての大寺では僧坊を砦として僧兵が戦を戦った時代があったのでしょう。
真っすぐに登って行く石段に一カ所だけ突き当たって迂回する道があります。
石段の中央にあるのは「白蛇伝説」の伝わる場所。
聖徳太子が寺を建立された時に白い鹿が現れた、またこの場所も古えは「三井」と呼ばれ、白蛇の塚があったとされる場所になります。
白蛇伝説の場所には5丁の石碑がありましたのでここで半分くらいかと思いながら石段に戻るが、さらに延々と石段が続いており、終わりが見えない。
高さのない段なので疲れはさほどでもないものの、足の置き場に注意したり、ガタついた石段でバランスを崩さないようにして登る。
参道を外れて少し下った場所には「弁慶の背比べ石」があります。
白蛇伝説の石と形が良く似ていますが、弁慶の背比べ石の方が遥かに大きく、弁慶の大男ぶりをあらわすような石です。
源義経が家来を連れて太郎坊宮に参拝し、瓦屋寺にも参詣したところ、寺のお坊さんが弁慶に「この石と背比べしないかと持ち掛けたという。
弁慶が背比べしたところ、石の方が高かったので弁慶は怒ってその石を蹴飛ばしたという。すると石の先端が割れて飛んでいき田んぼの中に落ちた。
以降この地を「田中」と呼ぶことになったとありました。
そろそろ空の上が抜けてきたと感じ始めた頃、「箕作山」の磐座とされる巨石が見えてきます。
東より太陽が昇り生活が始まり、西に沈む時にはその一日へ感謝を述べて磐座へお供え物を祀り、祈りを捧げたとされたそうです。
境内地に入ると「般若石」が祀られています。
太郎坊宮のある赤神山と箕作山にある瓦屋禅寺は山続きでつながっていますから、箕作山にも巨石が多い。
本堂は開いており、御本尊「十一面千手観世音菩薩立像(御前立)と「聖徳太子像」が祀られ、「四天王像」が守護しています。
御本尊の「十一面千手観世音菩薩立像」は秘仏ですが、2023年に三十三年に一度の御開帳をされるので、来年には拝観することが出来そうです。
展望台からは霊仙山と伊吹山が同じ視野の中で望めます。
鈴鹿の山々が連なる中で、2つの山だけが頭一つ上に突き出ているのが分かります。
このまま箕作山まで登ろうかと思ったが、登山口が分からず石段を下りましたが、ガタツキの多い部分のある石段ですのでスピードが上がらず結構時間がかかってしまいました。
車に戻って八日市市街を抜けた辺りまで来ると、何やら興味深いものを発見しました。
民家の前に「大塚古墳」という円墳があり、埴輪が5躰乗せられています。
古墳は「建部大塚古墳群」のひとつで、古墳時代後期(6~7世紀)の古墳とされているという。
古墳を回り込んでみると、石室が開いており、中が覗けるようになっています。
石室の周囲は草が多い茂っており、中には石造りの五輪塔が中央に置かれている。
かつては人の住まないところに古墳はあったのでしょうけど、今は古墳が民家のすぐ隣にあるのは時々見かける光景です。
大塚古墳群に属する別の古墳では鉄製武器・馬具・須恵器等が発掘されているようですが、人物埴輪はどうなんでしょう。
とはいえ、車の通行の多い道路沿いの古墳に人物埴輪が置かれていると、目を引きますしワクワク感がありますね。
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