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“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~和歌山県那智勝浦 補陀落山寺・熊野三所大神社~

2017-09-03 18:05:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 那智勝浦には「那智の滝」「熊野那智大社」などの有名な観光スポットがありますが、海に近い那智勝浦には「補陀落山寺」という天台宗の寺院があります。
補陀落山寺も世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の資産の一部になっていますが、この寺院は“補陀洛渡海の出発点”として知られる寺院です。

「補陀落」とはサンスクリット語で「ポータラカ」の音訳した言葉とされ、ポータラカとはインドの遥か南方の海上にあり、八角の形状をした山だという伝説があるそうです。
その山は観音菩薩が住む浄土だといわれており、この補陀落山寺はポータラカへの出発点にあたるとして信仰されてきたと考えられます。



補陀落山寺は4世紀頃の第16代天皇・仁徳天皇の時代にインドから熊野へ漂着した裸形上人によって開山されたと伝わります。
那智にはかつて「那智七本願」といわれる7つの寺院があり、熊野那智大社の造営・修理のためのお布施を集めていたとされますが、現在も残っているのはこの補陀落山寺と妙法山阿弥陀寺の2寺だけのようです。



寺院は江戸時代までは大伽藍があったそうですが、1808年の台風でほとんどの堂宇を失ってしまい、長らく仮本堂だった時代を経て、1990年に再建されたとされます。
歴史は非常に古い寺院ですが、本堂のみが再建されてかつての大伽藍の面影は今は見ることは出来ません。





「補陀落」は華厳経でインドの南端にあるとされており、日本では遥か南洋の彼方に「観音浄土(補陀落)」があると信じられていたそうです。
阿弥陀様のおられるのは西方極楽浄土、薬師様の東方浄瑠璃世界。観音様がおられるのは南洋の彼方となるということから、仏の世界観は各方角に向かって構築されているのかもしれませんね。



拝所からお参りした後、堂内へ入ると外陣には「鎌倉期の地蔵菩薩坐像」と「賓頭盧」様が祀られていました。
地蔵菩薩坐像はかなり痛みが見られましたが、坐像はあまり見る機会がありませんし、錫杖をお持ちでなかったため寺院の方に聞いて教えて頂くことになりました。

内陣へ入ると重要文化財の「木造千手観音立像(平安後期)」こそ秘仏で見ることは出来ませんでしたが、広目・多聞の2天像(平安後期)は見応えがある仏像でした。
脇陣には2躰の不動明王が祀られ、そのうち1躰は矜羯羅童子と制多迦童子を脇に従えており、その横には元はお前立ちかだったのかと思われる十一面千手観音が祀られていました。


十一面千住観音立像・・・和歌山県 那智勝浦町HPより

「補陀洛渡海」は南方にある観音浄土を目指して僧侶が渡海していく「捨身行」のことで、補陀落山寺からは江戸時代までに25名の渡海の記録が残されているようです。
渡海する僧は屋形船の屋形に入ると外から釘を打たれて、30日分の食料を持って曳き船に曳航され、途中で綱を切られて熊野灘を漂流していったそうです。

本来は「即身仏」のように“報恩・得果のため、身体を犠牲にして仏道を求める修行”だったと考えられますが、時代が下るに伴い儀式化していき住職が60歳になると渡海するようになったといわれます。
また“勧進のための儀式”といった意味合いも出てくるようになり、周囲からの圧力によって渡海させられた僧もいたようです。

金光坊という僧侶は船からの脱出を試みたものの、海岸で捕まえられて海に投げ込まれたという話があるそうです。
江戸時代には死んでから遺体を水葬するようになったとされますが、観音浄土への信仰とはいえ、実際は“死ぬための行”だったことは確かなようです。



再建された船は屋形の四方に「発心門・修行門・菩提門・涅槃門」の4つの殯門があり、狭くて暗い屋形に閉じ込められて波に揺られる僧侶はさぞや恐怖心を感じたことでしょう。
しかも渡海は11月に行われたといいますから、海上を漂いながら寒さとの戦いもあったのではないでしょうか。

さて、熊野の地には神仏習合の歴史が残っている場所が多いのですが、補陀落山寺と隣り合わせに「熊野三所大神社」がありました。



熊野三所大神社は、かつては「浜の王子社」と呼ばれていて「熊野九十九王子」の一つだったとされます。
熊野九十九王子は熊野古道に沿って皇族・貴人の熊野詣の際に参詣者の守護を祈願するため熊野古道沿いに造営されたとされます。

「王子」というと皇族の王子を想像してしまいますが、“修行者を守護する神仏は童子の姿をとる”という修験道の考えから「王子」と命名されているようです。
また実際に九十九の王子があった訳ではなく、数が多いという意味から九十九と数えられているといわれます。

熊野三所大神社の御祭神は「家津美御子大神・夫須美大神・速玉大神」の熊野三所権現で、鳥居の横には「浜ノ宮の大樟」と呼ばれる御神木がありました。
樹高25m・幹周り7m強で樹齢800年といわれる巨木です。



補陀落山寺と熊野三所大神社は神仏習合の寺社で隣り合わせて建てられていますが、明治の神仏分離によって分離され現在はひっそりとした神社になっていました。
祭典などの時は別でしょうけど、訪れる人も限られた村の神社といった感があります。



現在は補陀洛山寺と熊野三所大神社から海岸線までは少し距離がありますが、昔はもっと近くに海岸線があったといわれます。
平維盛(清盛の孫、父は重盛)は、一ノ谷の戦いでの敗退により都落ちして、高野山に入り、その後に熊野三山に参詣したとされます。

そして、この地より補陀落渡海に習って小舟を漕ぎ出して入水していったと伝わります。
観音浄土への出発点である補陀落山寺から観音浄土を目指して、死出の旅に出たということなのでしょう。


コメント
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