厳島神社の参詣口から少し先で五重の塔の下にある荒胡子神社で、中世のころこの神社を分祀して先に紹介した愛媛県内子町に栄恵美須神社が祀られている。
永正17年(1520)には廿日市の町人衆によって鰐口が寄進されており、廿日市地名の両地域ともにこの荒胡子神社との関わりが深かったことが知られるのである。
原地区の国道433号線の改良工事で元JA原支店のところから山陽自動車道方面に向かっての工事については以前紹介したが、現在路盤の盛り土工事が行われている。
どこから搬入しているのかは分からないけれど土砂を積んだダンプが4~5台が連なって運んでいる。山陽自動車道の下からは従来の狭い433号線を排ガスと騒音を残して疾走している。遣り方杭からみるとまだ相当の土砂の搬入が必要のようである。
明治期に入って佐伯郡の医会では医療技術の向上を図るために死体解剖をしており、明治25年(1892)に建立された被解剖者の遺志碑が蓮教寺墓地に残されている。
碑文によると執刀者広島病院長匹田復次郎、同医長秦巌、主任医田坂機作・杉山唯次郎とあり、廿日市で開業していた医師の解剖によって医療技術の向上を図っていたようである。
桂公園の片隅に建立されている歌碑で『ふるさとの 町のいらかを 見にのぼる 城あとの山 春蝉のなく』と山隅衛氏の歌が刻されている。
歌誌「晩鐘」の創刊20周年記念にあたる紀元2600年(昭和15年)に晩鐘社の会員によって建立されたものである。
永原地区にある新宮神社の拝殿に掲げてある「大墓宿夜討の図」で明治29年(1896)に描かれ奉納された絵馬である。
能楽「烏帽子折」の一場面で牛若丸が美濃の国の大墓宿で強盗の熊坂長範を討ち取る場面を描いているが吹きさらしのため退色が激しい。大墓宿は赤坂宿ができる以前の古い宿駅で青墓宿とも言われていたようである。
原森宗地区の山中にある王子神社跡の石碑で紀元2600年記念(昭和15年)に旧神社氏子によって建立されたものである。
江戸期の地誌に氏神金剛丸王子社がみえるが明治期に村社の伊勢神社に合祀された。向こう側にみえる石列の上に本殿があったものとみられる。
廿日市での5代目桜島大根の様子を時折り紹介しているが今年も5.7kgの大根が出来た。昨年種の採り方が悪く発芽しないのではないかと思われたがまずまずの大根に育った。
現在、鹿児島県の桜島全域で「桜島大根フェア」が開かれているようであり、今季の桜島大根の大きさコンテストで重さ21kgのものが優勝したようである。土壌や気温の違いといわゆる近親婚に近い栽培であり比較はできないのである。
永原地区にある新宮神社の拝殿に掲げてある「五条大橋上の弁慶と牛若丸の図」で嘉永7年(1854)に描かれ奉納された絵馬である。
五条大橋は弁慶と牛若丸が出会った場所とされ、弁慶の長刀(なぎなた)をひらりとかわして欄干上に立つ牛若丸の有名な場面を描いているが吹きさらしのため退色が激しい。
山陽自動車道宮島SAのスマートインターチェンジは社会実験が終わって平成21年4月1日より本格導入された。最近は一日に2000台から2500台位の利用があるようである。
スマートインターチェンジの管理事務所は今までは仮設建物であったが、現在恒久的な管理事務所の工事が行われておりもう完成間近である。
昨日は節分であり孫の家には太り気味の鬼がやってきた。鬼に手紙を渡しながら大声で泣いて「おにはそと、ふくはうち」。なぜかこの鬼はサンタの衣装姿だ!
本日は立春であり暦の上では春であるが本日も寒くまだまだ寒い日が続くであろう。
永原地区にある新宮神社の拝殿上がり口脇に今まで見たこともないような祈願の跡とみられるものが残されていた。
小さな石の上に5円玉が5個置かれてその上でロウソクをとぼしたものか蝋のようなものが5円玉の上にみられる。多くの寺や神社を訪れたことがあるが、このようなものは初めて見たものであり何を祈願されたのであろうか。
地御前市民センター(地御前公民館)前の三叉路角に建立されている道しるべ標石で、元は浜町に建立されていたということである。
昨日紹介したが海岸通りの新道は明治11年(1878)に着工して同13年に開通しているのであるが、この標石は明治9年に建立されており新道開通以前から地御前神社に参詣する道があったことが窺われるのである。
地御前金剛寺地区の旧国道沿いに建立されている里程標石で、四郎峠を通る西国街道に変わって海岸沿いに国道が建設され、西国街道の一里塚に変わって明治18年(1885)この壹里標石が建立された。
この標石は広島市元安橋東詰の標木から4里で県境大和橋の標木まで5里13町56間2尺2寸と刻されている。尺や寸の距離は当時の測量器具などから測定誤差の範囲であろうが細かく表示されている。